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Pandora Ark Online.  作者: ミッキー・ハウス
蜜病狂騒編
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アルミル蜜病記外伝①

辺境の街アルミルにおいて、「初級ポーション」は後世の常識となった。だがその誕生の瞬間を知る者は、いまやほとんどいない。


始まりは、一人の鬼人族の冒険者が持ち込んだ奇妙な瓶からであった。




「これを見てほしい」


薬師ギルドの一室で、銀髪の鬼人族――橘花は瓶を掲げた。淡い青色の液体が揺れ、ほのかに薬草の香りを漂わせる。


集まった薬師ギルドの面々は怪訝そうに視線を交わす。老練の薬師が眉をひそめて言った。


「ただの煎じ薬にしか見えぬがな。いまさら何の真似だ?」


「飲むか患部へ直接かければ、小さな傷はすぐに癒える。治癒の速度は、既存の軟膏や乾燥粉よりはるかに早い」


橘花は言葉少なに説明した。実際に自らの掌を小刀で浅く切り、瓶の液体を数滴垂らす。みるみるうちに血は止まり、赤みが引いていく。


「……なんと」

「小細工か? いや、確かに傷が塞がっている」


ざわめきが広がった。だが橘花はさらりと続ける。

「名を『初級ポーション』と呼ぶ。効能は見た通りの小さな傷の治癒と、鎮静化して久しい蜜病の初期から中期間に接種すれば完治させられるものだ。調合法も記録してある。問題は――これをこの街の薬師たちが作れるか、だ」


差し出された羊皮紙には、細かな分量と工程が記されていた。

煮出す温度、混ぜ合わせる順序、攪拌の回数。表面上は単純だ。

だが、誰もが直感した。「こんなもの、簡単にできるはずがない」と。



試みはその日から始まった。

だが最初に挑んだ薬師は、どれも失敗した。色は濁り、香りは焦げ、瓶の底には沈殿物が溜まるばかり。


「どうしてだ、手順どおりにやったのに」

「同じ分量を量ったはずだ!」


疑う薬師達に橘花は実演して見せた。目の前で同じ材料を用い、指示通りに作り、青色の澄んだ液体を完成させる。

「ほらな」

淡々と差し出される瓶。


薬師たちは頭を抱えた。見てわかっても、手が追いつかない。

同じように混ぜ、同じように煮出したはずなのに、なぜか再現できないのだ。


やがて多くの薬師は諦めた。

「馬鹿げている。あんな外来の技術、我々に馴染むはずがない」

「そもそも効率が悪い。数も揃わぬでは何の役に立つ」


冷笑と共に、次々と席を立つ薬師たち。


その中に、一人だけ残る影があった。

青年――サイモン・ルドガーである。



彼は薬師ギルドの中でも「落ちこぼれ」と呼ばれていた。

調合は遅く、成果は少なく、叱責ばかり受けてきた。

だがその夜も、彼は黙々と調合を繰り返していた。


「違う……温度が少し高いのか。いや、攪拌の間隔か……」


ひと瓶、またひと瓶。

失敗の山が積み重なり、夜が更け、窓の外に灯りが消えていく。

だがサイモンの手は止まらなかった。


薬草を刻む刃は丁寧に、計量する指は震えるほど慎重に。

彼にとって調合は「効率」ではなく、「対話」だった。

草の香りを嗅ぎ、色の変化を見逃さず、わずかな粘度の違いにも耳を澄ます。


何度も失敗し、顔に煤を浴びながらも、サイモンは続けた。

落ちこぼれだからこそ、やめられなかった。

誰もできないなら、自分がやるしかないと。



そして、ある日の夕方。

試験管の中に、透き通るような青が揺れた。


「……できた、のか?」


恐る恐る瓶を掲げる。香りは爽やかで、沈殿はない。

小さな切り傷に滴らせると、皮膚がみるみる塞がっていく。


――成功だった。


誰もが匙を投げた調合を、サイモンが成し遂げたのである。


成功した初級ポーションを前に、サイモンはまだ信じられないといった顔で瓶を見つめていた。

まだ残っている周囲の薬師たちのざわめきが遠くに感じられる。


「おい、もう一度やってみろ」

「本当に偶然じゃないのか?」


そんな声が飛び交う中で、背後から落ち着いた声が響いた。


「……やったな」


振り返ると、橘花が立っていた。

その表情はいつもと変わらない。だが目の奥には、確かな光が宿っている。


「き、橘花さん……」


サイモンの声は震えていた。

これまで何をやっても「遅い」「不器用」と言われ、まともに評価されたことがなかったのだ。

今も信じきれず、ただ瓶を抱きしめるしかできない。


橘花はサイモンから瓶を受け取り、わずかに傾けて光に透かした。

青は濁りなく澄み、液面は安定している。

しばし黙ってから、彼は言った。


「私が作ったものと、寸分違わない。……いや、下手をすると私より安定しているかもしれないな」


「えっ……そ、そんな……」


「偶然じゃない。丁寧に向き合った。だからこそ、この形に辿り着けた」


橘花は瓶を返しながら、ほんのわずかに口元を緩めた。


「……ありがとう。あなたのおかげで、この技術は根付くことが証明された」


その言葉に、サイモンの喉が詰まった。

母にすら「薬師には向いていない」と言われた日々。仲間から笑われ、蔑まれ、諦めかけた夢。

その全てを肯定するように、橘花の言葉は響いた。


気づけばサイモンの頬に涙が伝っていた。

橘花の言葉の意味を理解した瞬間、サイモンは初めて胸を張ることができた。

「落ちこぼれ」と呼ばれた名は、この日を境に「調合の先駆者」へと変わっていくのである。



「サイモンが……?」

翌日、成功の一報に、先に匙を投げた薬師たちはざわめいた。


落ちこぼれの名を背負った青年が成功させたという事実は、多くの者の心を揺さぶった。

恥じる者、驚く者、嫉妬する者。

だが最も多かったのは「負けていられない」という感情だった。


以後、薬師ギルドは再び奮起する。

サイモンの成功は灯火となり、多くの薬師が夜を徹して挑み続けた。


それでも――後にも先にも、サイモンほど安定して初級ポーションを作れる者は現れなかった。

彼の調合は遅く、不器用だったが、揺るがぬ丁寧さと真摯さが、唯一無二の結果をもたらしていたのである。


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