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Pandora Ark Online.  作者: ミッキー・ハウス
蜜病狂騒編
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アルミル蜜病記


 辺境の街アルミルを覆った「蜜病の惨禍」は、今なお数多の史料に記録されている。記録者たちが等しく強調するのは二つ――街が「救われた」という事実と、その陰で「救えなかった命」を抱え続けた人々の痛みである。


 蜜病は、当時の治療薬がほとんど効を奏さず、罹患すれば数日のうちに高熱と咳を伴い、進行すれば全身の痺れと関節の激痛をもたらした。さらに菌が内臓を侵し、やがて吐血の末に死へ至る急性疾患として恐れられた。


 原因は長らく不明とされたが、近年の研究では、地下に棲みついていた毒虫の体液が地下茎作物を汚染し、その腐敗を媒介として菌が繁殖したことが発端とされる。人はそれを食し、口腔や小傷から菌が侵入。体内に定着すると血液や飛沫を通じて感染が広がったと推定されている。



 絶望的な状況において、人々が縋ったのは冒険者ギルドであった。だが当時のギルド長マーキアドは、己の一族と一部貴族層の安寧を優先し、住民への医療供給を後回しにした。この姿勢は後世の糾弾を免れず、アルミルの暗黒期を象徴する事例としてしばしば挙げられる。


 対照的に、救済の象徴となったのが鬼人族の冒険者――橘花である。



 橘花が導入したのは、異界の知識に由来する「初級ポーション」であった。当時、その効能を理解する者はほとんどなく、煎じ薬の一種と見なされるに過ぎなかった。だが橘花はわずかな臨床例から蜜病に対する特効性を見抜き、徹底したトリアージと共に投与を開始する。


 ここでの選択は非情であった。初期から中期の患者に投与を優先し、重篤患者――いわゆる「黒判定」には薬を回さなかった。資源が限られる状況において、最大多数の生存を選ぶための冷徹な決断であった。



 この決断を最も深く胸に刻んだ人物がいる。後に「医学の父」と称されるアーノルド・バレンタインである。


 彼の母は黒判定とされ、治療を受けられぬまま病没した。若き日のアーノルドは橘花を呪ったと伝わる。仲間の医師らが「仕方がない」と慰めても、彼は納得できなかった。彼の日記には次の一文が残る。

 ――「仕方ないと諦めたくないから、医者になったのに」。


 母の形見のペンダントを握りしめ、嗚咽を押し殺した青年は、やがて自らの痛みを糧とし生涯を医学に捧げることとなる。



 アーノルドは各地を巡り、小さな風土病から異種族特有の症例に至るまで調査を重ねた。治療法を整理し、臨床と記録を蓄積することを怠らなかった。晩年、彼はその成果を結晶させ、『汎種族医学綱要』を完成させる。この大著は後世「医学書の父」と呼ばれるほどの影響を及ぼし、アルミルのみならず諸都市の医療基盤を支えた。


 特筆すべきは、彼がその第一章に「蜜病の記録」を置いたことである。そこには母を救えなかった悔恨と同時に、橘花の判断がいかに合理的であったかの記述が並ぶ。彼は決して橘花を責めなかった。むしろ橘花の残した実験記録――現地人のみでポーション調合が可能であることを示した検証――に依拠し、研究を広げていったのである。


 蜜病事件の折、橘花は冒険者ギルドを通じて薬師ギルドへ協力を求め、現地での初級ポーション製作に挑んだ。その過程で最初に成功を収めたのが、一人の若き薬師――サイモン・ルドガーであった。


 彼はもともと地方薬師の徒弟に過ぎなかったが、鋭い観察眼と几帳面な記録癖を持っていた。橘花の指導のもと、何度も調合に失敗しながらも、一つひとつの工程を精査し、ついに現地素材だけで初級ポーションの生成に成功したのである。


 その瞬間を橘花はこう語ったと伝わる。

 ――「……ありがとう。あなたのおかげで、この技術は根付くことが証明された」。


 以後、サイモンは調合の普及に生涯を捧げる。彼は薬師ギルド内に「調合学舎」を設立し、弟子を育てるだけでなく、地方の村に出向いては農作物や薬草の採取・保存・加工の方法を伝え歩いた。その姿は「旅する薬師」と呼ばれ、多くの記録に残っている。


 サイモンの最大の功績は、ポーション調合を「秘伝」から「学問」に押し上げた点にある。彼はレシピを体系化し、実地経験に基づく「調合手引書」を作成した。そこでは材料の効能、調合の比率、温度や攪拌の時間など、誰が読んでも再現できる形式で記されていた。


 後世、この手引書は「サイモン・ルドガー稿」と呼ばれ、薬学史の出発点として扱われることになる。


 初級ポーション調合の点について後世の研究者の間では議論が続く。橘花は偶然に知識を持ち込んだのか、それとも意図的に技術移転を試みたのか。史料に残る橘花自身の言葉は少なく断定は難しい。


 ただ一つ確かなのは、橘花が「人間族の協力者と共に」調合実験を行い、現地人のみの手で成功を収めたという事実である。この成果は、後に「異種族共生の象徴」として語り継がれることとなった。


 こうして「医学と薬学の双璧」と後世に語り継がれる、蜜病の惨禍から二つの系譜が芽吹いた。


 両者の研究はやがて交わり、医術と調合は互いに補い合う学問として発展する。橘花の名は史料の片隅にしか残らなかったが、彼が残した「判断」と「技術移転」が、この二つの巨星を生んだことは疑いない。


 事件後、アルミルは徐々に活気を取り戻す。市井の記録にはこうある。

 「広場に人が集まり、皆で息を合わせて深呼吸をした。生きていることを確かめるかのように」。


 その安堵は確かに街全体を包んでいた。だが誰もが知っていた。救えなかった命があったことを。救済と喪失という二重性こそ、蜜病事件の歴史的教訓である。




 歴史家フランベルグ博士はこう評した。

 「蜜病の教訓とは、誰もが生き残れぬ状況において、如何に生き残った者が他者の死を背負って歩むか、という問いである。橘花も、アーノルドも、サイモンも、それぞれに答えを見出した。そしてその積み重ねが、我々の現在の医学と共生社会を形づくったのだ」。


 街角に残る古い石碑には簡潔な一文が刻まれている。

 ――「諦めぬ者たちが、未来を築いた」。


 蜜病の惨禍は確かに終わった。しかしその痕跡は今も、人々の記憶と制度の中に息づいている。




※未送信の手紙(一次史料) を追補。


 アーノルド・バレンタインの書斎からは、彼の死後、多数の研究資料が発見された。その中に一通の未送信の手紙が含まれていたことは広く知られている。宛名には「鬼人の友、橘花へ」とだけ記され、封は開かれていなかった。便箋には震える筆跡で次のように綴られていた。




橘花殿へ


あの日、私はあなたを憎んだ。母を救わぬ冷血の異種族と、胸の中で罵った。

だが、幾十年の後に振り返ると、私が医師として歩めたのは、あなたが決断を下したからだと気づく。


あなたの判断がなければ、街は滅んでいた。

あなたが残した記録がなければ、私の研究は芽吹かなかった。


私は未だに母の死を忘れられぬ。だが同時に、あの日のあなたをも忘れられぬ。

この矛盾を抱えたまま、私はここまで生きてきた。


もし再び会うこと叶うなら、私はこう告げたい。

「あなたの残したものが、私の歩みを支えた」と。


どうか安らかにあれ。

そして願わくば、この手紙が届かずとも、風の中であなたに伝わることを。


     アーノルド・バレンタイン




 この手紙が実際に投函されなかったのか、それとも送る術がなかったのかは不明である。橘花が消息を絶った時期と、アーノルド晩年の執筆時期とが重なっているため、宛先を定め得なかった可能性が高い。


 しかし、この文面に表れた矛盾――憎悪と感謝の共存――こそが、蜜病事件の持つ象徴性を端的に示している。すなわち、「救済と喪失は不可分であり、生者は死者を抱えながら歩む」という教訓である。


 手紙は現在、アルミルの医学会館に収蔵され、来館者に公開されている。石碑と並び、この街の人々が二度と同じ過ちを繰り返さぬための「記憶の装置」として機能している。

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