第76話
街の混乱がようやく収束に向かう頃、冒険者ギルドの内部では奇妙な現象が起きていた。
「橘花さんが、あの査察官から高く評価されたらしいぞ」
「感染症対策を指揮して、多くの命を救ったんだと」
「しかも書類整理まで完璧だったって……」
冒険者が酒場で噂を広め、ギルド職員が頷き、果ては受付嬢まで「頼れる人」として名を挙げる始末。
──当の本人はといえば、机に突っ伏しそうな顔でペンを握っていた。
「……なんで私の評価が上がってるんだ。私はただの冒険者で、しかもギルドの書類仕事なんて臨時で手伝っているだけなのに」
不満というより、困惑に近い呟きだった。
ほんのちょっと書類の山に埋もれかけていたギルド職員の書類を見ていい範囲でのぞかせてもらい、ちょいちょいと手直しして、渡したのがきっかけだった。
パソコンがないのは不便だが、社会人で机仕事をしたことがある人ならできる範囲の仕事という認識で、やってしまったのが運の尽き。
「橘花さんに書類見せたら、パパッと完璧に直してくれた」
そのギルド職員の一言で、あれよあれよという間に書類仕事を任されることになった。
書記官のサボり事件が発覚してなければ、ガンジも気付かぬままボランティアで書類仕事を続ける羽目になっていただろう。
ちなみに、今はちゃんと給金の支払いはされている。
仕事としてギルドの書類を処理しているが、本来の橘花は冒険者で書類を提出して処理してもらう側のはずなのだ。
それに橘花の本音は「静かに飯と酒を楽しみたい」ただそれだけ。英雄視など望んでいない。
そんな折、ガンジが肩を叩いてきた。
「橘花。お前さんの働きは確かにでかい。だがな、あんまり有能さを隠しても無駄だぞ。人は噂をするもんだからな」
「いやいや、隠してるつもりもないんですけど……誇張されてる気がするんですよね」
ぼやく橘花の横で、受付嬢が明るい声を上げた。
「橘花さん! 次の会議で医療班代表として意見を聞かせてほしいって依頼がきています!」
「……え、私はギルド職員じゃないんですが」
周囲の「頼れる男」としての扱いが、じわじわと本人を締め付けていく。
こうして橘花の評価はギルド内で急速に高まり、本人は「目立ちたくないのに……」と内心頭を抱えることになった。
だがその「困惑ぶり」こそ、ますます人々の好感を買っていくのだった。
冒険者ギルド内で「橘花=万能」の噂が立ってから数日後のこと。
最初にそれを口にしたのは、酒場の酔っ払いだった。
「なぁなぁ、お前ら聞いたか? 橘花“先生”が疫病を封じたんだとよ!」
「せ、先生?」
「ほら、剣術も医術も書類もできる奴は、昔から“先生”って呼ばれるだろうが!」
──酔っ払いの一声が、思いのほか街の住民に受けた。
翌日、街角では子供たちが元気に駆け回りながら叫んでいた。
「先生ー! 剣の構え見せてー!」
「先生ー! お薬ちょうだいー!」
橘花は宿に向かう途中で囲まれ、思わず声を裏返らせた。
「ちょ、待て待て待て! 私は先生じゃない、ただの冒険者だって!」
しかし子供らは目を輝かせて言う。
「でも、父ちゃんが言ってた! 昔は剣の強い人も、学のある人も“先生”って呼ばれてたんだって!」
「橘花先生はどっちもできるから、先生なんだよ!」
「いやいやいや! 私は飯食って寝てたいだけで──」
抗弁もむなしく、その場に居合わせた商人まで乗っかってくる。
「橘花先生、計算早いって聞きました! 子供に算術も教えてやってくださいよ」
「違う違う違う、私は教える側じゃなくて──!」
さらに酒場では、冒険者仲間が面白半分に乾杯を始めた。
「おーい、みんな! 今日も橘花先生に乾杯!」
「かんぱーい!」
「やめろぉぉぉ!」
橘花の悲鳴をよそに、呼び名は瞬く間に定着していく。
いつしかアルミルの街で「先生」といえば、学者でも剣士でもなく、銀髪角付きの大男を指すようになった。
──なお、橘花本人はというと。
宿で布団に潜り込み、枕を抱えながら呻いていた。
「……頼むからそっとしといてくれ……私は先生じゃなくて、ただの橘花だ……」
そのぼやきさえ、翌日には「先生は謙虚だ」と噂になって広まったのだった。
⸻
感染症沈静化の作業が続く中、橘花は数日間ギルドに泊まり込みをしていた。
緊急事態が落ち着けば止まっていた通常業務が再開し始めるわけで、ギルド職員達からの泣き落としで手伝うことになり橘花は書類整理からはまだ解放されず、他の冒険者達も通常業務に戻るための、周辺地域の安全確認などを報告に来てくれるが、またそこから別の場所の確認へと駆り出される。
確認作業が連日続く中、宿に帰ることができない方が多い。
新人冒険者にもできる範囲で周辺地域調査をしてもらっているため、書類の数が膨大になる。
もうここで寝るしかない。
ギルド長のガンジに許可をとって、ロビーに寝袋を並べて皆と雑魚寝という、冒険者らしい光景だった。
──夜。
疲労困憊で倒れるように寝入った橘花は、普段の隙のなさもなく、ただ静かに寝息を立てていた。
翌朝。
ギルド職員や冒険者たちが次々と寝袋から抜け出し、ギルドの簡易キッチンで火を起こしたり、裏の井戸で顔を洗ったりして支度を始める。
その時──
「……ん?」
まだ眠そうに寝返りを打った橘花が、寝袋から半身を起こした。
胸元の着物ははだけ、首筋から鎖骨にかけて朝の光を浴びて白く輝く。
緑がかった翡翠色の瞳がとろんとした寝起きのまま薄く開き、気怠げな表情を浮かべる。
偶然それを見てしまった冒険者の一人は、石像のように固まった。
「……っ!?」
(な、なんだこの色香はっ……!? オトコだよな? オトコだよな!?)
焦って視線を逸らすが、遅い。脳裏に焼き付いてしまった。
数分後。
ギルドに併設された食堂に集まった冒険者たちの間で、噂は瞬く間に広がっていた。
「なあ聞いたか……寝起きの橘花さん、ヤバかったらしいぞ」
「色気が……すごかったって」
「妖艶って言うのか……? なんか、拝んじゃいけないものを見た感じって」
目撃した冒険者は顔を真っ赤にして両手を振った。
「ち、違うんだ! 別にやましい意味じゃなくて! ほんとに一瞬、神々しいっていうか……!」
そこに、さっきの本人が現れた。
洗顔を済ませてすっきりした顔で、いつもの銀髪を後ろでまとめている。
「……なんだ、朝から騒がしいな」
すると冒険者たちが一斉にこちらを見て、気まずそうに目を逸らした。
そして小声で、しかし確実に本人に届く声で囁く。
「……先生の寝起き、すごかったらしい……」
「いや、“寝起き先生”だな……」
「おい待てッ!!! 誰が“寝起き先生”だッ!」
耳まで真っ赤にして叫んだその姿が、またしても周囲の評価を高めてしまった。
「怒っても可愛い……」
「やっぱり先生だわ」
ギルドの朝は、今日も平和であった。
くだらないことでも笑えるのは平和が戻ってきた証拠。




