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Pandora Ark Online.  作者: ミッキー・ハウス
蜜病狂騒編
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第75話

査察を終え、ヘーゼルは静かな足取りで冒険者ギルドへ戻った。

執務机に向かい、書類を積み上げて処理している巨体を見つけ、思わず首を傾げる。


――橘花だ。


彼は冒険者であって、ギルド職員でも役員でもないはず。

なのに机に並んでいるのは、予算や財源の整理といった末端の事務書類だった。


「……はて?」


のぞき込むと、橘花が顔を上げた。


「あ、ヘーゼルさん。ガンジさんなら今、出かけてますよ」


ギルド職員ばりの応対に、さらに混乱する。

しかも書類整理の手つきがあまりに鮮やかで、まるで長年の実務経験があるかのようだった。


巨体を小さな机に詰め込み、黙々と書類を片付ける姿。

あまりにシュールで、ヘーゼルは口の端が緩むのを慌てて押さえた。


それを具合が悪いとでも思ったのか、橘花が心配そうにヘーゼルを見た。


「徐々に事態は収束していますが、具合が悪くなったらすぐ言ってください。今なら検査も半日で結果が出ますし、異常がなければ家に帰れますよ」


何気なく言うその一言に、ヘーゼルは感嘆を覚えた。

本来なら医者の診断から結果が出るまで数日はかかるものだ。それを半日で済ませる体制を整えたのが、この男。


――恐るべき実務能力だ。


「君は……王都でその才を振るおうとは思わないのか?」


ふと疑問を口にすると、橘花はきょとんと首を傾げた。


「私はのんびりできて、美味い飯と酒があればいいので」


無欲。そうとしか言えない返答だった。


ヘーゼルは小さく息を吐くと、真っ直ぐに言葉を投げる。

「君の指揮で街の感染症対策は迅速かつ的確に進められた。多くの命が救われたのは、紛れもなく君の功績だ」


橘花は手を止め、静かに目を伏せる。

「ありがとうございます……でも、私がしたのは、できることをしただけです。英雄でも、特別でもありません」


その言葉に、ヘーゼルの口元がわずかに緩む。

「……なるほど。驕らず、現場を見極め、仲間を導いた。非常に好印象だ」


報告書にさらさらと走り書きを加えながら、誰にともなく呟く。

「本部への報告には、君個人への評価も正確に伝えねばな」


橘花は軽く頭を下げ、穏やかに笑んだ。

「ありがとうございます。でも、この結果はみんなの協力あってのことです。ひとりの功績ではありません」


謙虚さに、ヘーゼルは深く頷いた。

現場で見た冷静さと判断力、そして異種族であることを意に介さず人々と肩を並べる姿が、彼の胸に強く刻まれていく。


だが――。


「その書類処理能力は魅力的だな。阿呆な貴族どもに爪の垢を飲ませたいくらいだ」


「これは……手が足りないと駆り出されまして」


橘花の目の下には、はっきりと隈が浮かんでいた。

数日眠らずに働き、医療班の体制づくりにも動いていたのだろう。


――なぜ彼にここまで負担が?


ヘーゼルの目が鋭くなる。


「そうか。では、私はガンジ殿が戻るまでギルドを見て回ろう。もし戻られたら、私が探していたと伝えてくれ」


「わかりました」


角の生えた厳つい見た目とは裏腹に、温かな雰囲気で見送られる。

これが街の危機を救った者だとは、誰もすぐには信じられまい。


そして数日後。

書記官のひとりが「職務を放り出して雑談していた」ところをヘーゼルに見つかり、欠員となった。


「また手伝わないといけないかも」と腰を上げた橘花を、ガンジが止める。


「職員の仕事を肩代わりしてくれてありがとう。だが今度は休んでくれ。俺たちでやり遂げる」


いつになく燃えるガンジの言葉に、橘花は素直に頷き宿へ戻った。


久方ぶりの休暇。惰眠をむさぼる姿を、ウェンツたちが目撃するのは――また別の話である。



事態が徐々に収束し、街の空気も落ち着きを取り戻した頃、ガンジは橘花を呼び、二人で話す機会を得た。


「……お前、蜜病を媒介したとか、思わなかったのか?」

感染症特定の折りに聞いた、隠れ里での医療行為の話を聞かされれば、誰もが橘花に罹患の疑いを向けたはずだ。

静かに尋ねるガンジに、橘花は肩をすくめて答える。


「そうならないために、ここに来てからも発症させない努力はしてたさ。その手のことは、弟がうるさくてな。風邪を家に持ち込むだけでも大目玉くらう。耳にタコができるほど何度も言われてる」


ガンジはふ、と笑った。

「そりゃすげぇ弟だな。俺もそんなにきっちり言われたら、気をつけるしかねぇや」


「今回のことも、弟に頼めばよかったんじゃないか? 近くにはいないのか?」

問いかける声に、橘花は少し言葉を濁した。


「そうだなぁ……今は遠いところにいるよ」


その一言だけで、ガンジはそれ以上は問わなかった。橘花の口ぶりから、亡くなったわけではないのはわかる。それでも、五年前の大戦で生き別れになったか、事情があるのか……と、想像を心の中で巡らせる。


「……今回のことは、助かった。感染症だけじゃない、ギルドのこともだ。あんたがいなきゃ、どうなってたかわからねぇ」


ガンジは深く、感謝の意を込めて言った。


「これからも冒険者のために頑張ってくれればいい」


そう言って橘花は軽く笑みを浮かべながらも、心の奥で弟の厳しさと、今こうして無事に事態を乗り越えられた安堵を噛みしめていた。



しばらくして、街の感染症「蜜病」は完全収束宣言が出された。

ガンジがギルド長に復帰したおかげで、アルミルの冒険者ギルドは再び円滑に回り始める。

復帰を喜んだのは冒険者だけでなく、ギルド職員たちも涙ぐむほどだった。


その祝いとして、一番の飲み屋を貸し切り、宴会が開かれることになった。もちろん、橘花と四人も招かれている。

ポーション作成の立役者として紹介されると、四人は顔を赤くしてそろって照れる。


「僕たちはギルドに迷惑をかけました。それを少しでも挽回できるようなお手伝いができたのなら、存外の喜びです」

代表でウェンツがそう述べると、場内から拍手喝采が起きた。

四人の緊張は一気にほぐれ、周囲の祝福に顔をほころばせる。


しかし橘花はすぐに視線を四人へ送り、圧をかけた。

「酒は飲むな。お前ら未成年。自覚ある?」


未成年の三人は渋々うなずくしかなく、ソータに至っては目を丸くして言った。

「ぼく、お酒弱くて……魔法の最大火球ぶっ放してお店焼いちゃっても、皆さん飲ませた責任取ってくれるならどうぞ」


場内が一瞬、凍りつく。だが誰もソータに酒を勧めず、橘花は心の中でほっと胸を撫で下ろした。

未成年でも自衛できる者がいることに、これ以上ない安心感を覚えながら、宴は和やかに続いていった。


宴も佳境に入る頃、ソータ以外の三人は、さすがにお酒の影響で少しヘロヘロになっていた。


「橘花しゃんは、すごいんです。もう僕らのこと放ってもいいのに、責任感すごくてー、こんな大人の人ってあったことなくてー」と、酔い気味のウェンツがふにゃりと笑いながら語る。


「俺、ほんとは俺だけ悪いことにして話進めればいいのに、凄いんだよー。話忘れてたのヤバいって気づいた時に、詰られると思ったら、それも全部自分が聞いてないから悪いとか。なんだよ、この人、すごく大人だよ。マジもんの夜廻先生みたいな人、初めてだよー」と、ロイヤードも笑いながらも感心しきりだ。


エレンは壁にもたれながら、少し舌を出して「うん、大丈夫。オレは大丈夫。ちょっとしか舐めてない。酔ってないから大丈夫」と、かすれた声で自己申告。


橘花はため息をつきつつ、「お前ら、後で説教な」と、聞こえていないのを承知で念を押す。


その横でソータはジュースを手に、少し呆れた顔でぽつりとつぶやいた。

「兄さんたち、情けないですね」と、まるで大人の目線で飲み会に参加していた。


酔った三人のふにゃふにゃとした口調や無邪気な感想から、橘花への信頼や尊敬が自然に滲み出る。

小さな成長と、自分たちを守ってくれた大人の存在を改めて意識する、和やかで温かい夜だった。


立役者として初級ポーション作成に奔走してきた橘花。それはそれとして、今夜の飲み会で橘花を酔わせようと虎視眈々と狙う冒険者たちがいた。シルヴァンを筆頭に、これまで関わりが薄かった者たちが、一斉に酒を注ぎに集まる。


「わっ!」と手にしたジョッキを差し出し、橘花のグラスが空けば注ぎ、満タンでも注ぎ、止まることなく注がれる。


しかし、橘花は顔色ひとつ変えず、ぐびぐびと飲み干していく。その姿に冒険者たちの意気込みは次第に焦燥に変わる。


ついに、飲み会でよくある「一気飲み」の提案が出た。

「楽しく飲めればいいのに……」と橘花は否定するも、問屋は卸さない。シルヴァンがふざけて言った。

「これで勝てたらパーティーに入れと言わない!」


その瞬間、場の空気は一変。挑戦状を受けるかのように、橘花は笑顔でジョッキを掴んだ。


「その話、忘れるなよ?」


それからというもの、注がれる酒を次々と飲み干す橘花。ジョッキの山は次第に空になり、周囲の冒険者たちは沈黙。次々と倒れていく仲間たち。


シルヴァンは、卓上に沈んだ頭を橘花にポンポンされながら、悔しさと脱力の入り混じった表情を浮かべる。

「……約束守れよ?」


こうして、アルミル街に「鬼人族・酒豪伝説」が刻まれた。

お酒は二十歳を過ぎてから。

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