第71話
すぐに動きは始まった。
鍛冶屋が鉄枠付きの蚊帳を作り、織物屋は粗布を切り分けて口当て布(布マスク)を量産する。
子どもたちは手桶を持って家々を回り、水溜りに砂をかけて潰す。
薬師は蚊避けになる草――ヨモギやシトラス香のする葉を束ねて配り、家の入り口や窓辺に吊るすよう指示した。
数日後、ギルド前の広場で住民への呼びかけが行われた。
衛兵が鐘を鳴らし、人々が集まる。
壇上に立った橘花は、口当て布を手に高く掲げる。
「この病は、蚊と人の口から広がる! 口当て布は必ず外に出る時に付け、井戸や桶の水は蓋を!
病人を看る時は、この布と蚊帳を使うこと!」
ざわめく人々の中から、「そんな布きれで病が防げるのか?」という声が飛ぶ。
橘花は即座に返す。
「防げる。これは弟――医術師から学んだやり方だ。私はその全てを再現できないが、これで命を救えるのは確かだ」
不安げだった住民たちの表情が、少しずつ決意へと変わっていく。
母親たちは子どもの口に布をあてがい、職人は新しい蚊帳を担いで帰っていく。
やがて街の家々の窓に粗布が垂らされ、入り口には草束が吊るされる光景が広がった。
橘花は広場を見回し、胸の奥で呟く。
「……これで、少しは持ちこたえられる」
だが、その視線の先、森の縁を飛ぶ一匹のアゲハ蝶が甘い匂いを辿るように街へ入り込むのが見えた。
瞬間、忘れていたひとつのことにハッと気づき、橘花は近くにいたギルド職員に至急ガンジへの言伝を頼んだ。
ーーーー
数時間後――ギルドの会議室に、ガンジの指示で街中を走り回って疲れた顔の冒険者や衛兵たちが戻ってきた。
ガンジは地図を前に、淡々と告げる。
「聞き込みの成果を教えてくれ。ここ1ヶ月以内で感染症の騒ぎが起きる前までに、異常に蝶がまとわりついていた人間は?」
一人が手を挙げる。
「……ほぼ全員、同じ名前を挙げた。モリフン・マーキアドの娘だ」
別の冒険者が頷きながら続ける。
「森から戻ってきてからだ。見かけるたび蝶が頭や肩に止まってた。本人は“私の美貌に惹かれて来るのよ”なんて笑ってたが、誰も相手にしなかった」
「そういや、広場で子供たちを集めて演説してたな。蝶が寄ってくるのを得意げに見せびらかしながら」
衛兵が腕を組み、険しい顔をする。
「――だ、そうだ、橘花。これで何かわかるのか?」
「十分すぎるほどに」
――これで確定だ。
蜜病の初期症状が出ている時期にマーキアドの娘が人前へ出て、子どもたちに近づいていた。
地域の子供達は、近所のお年寄りによく可愛がられていた。
そこから老人たちに感染し、免疫力が落ちている者から進行が早くなり、死亡する直前の末期まで風邪と信じ出歩いていた。
末期症状の者が街中で血を吐き、感染はそこで他の者たちに一気に広がったのだ。
その頃にようやく免疫力の抵抗から老人より進行が遅れていた最初に感染した子供達が、節々の痛みを親に訴えて倒れた。
ではマーキアドの娘が、蜜病をどこから持ってきたのか。
橘花の脳裏に、かすかな記憶がよみがえっていた。
――隠れ里の村人との初接触。村人を違反者と勘違いし、迷わず「ミブロの橘花だ」と名乗った。
その場にいたのは、村人以外、万能草を抱えて走り去った、あの小さな背だけだった。
顔ははっきり思い出せない。声も、呼びかけても返事すらしなかった。
だが――万能草。
あの時にしか繋がらない共通点だ。
そこから辿れる点を繋ぐと、答えは一つしかない。
橘花は招集されて部屋の隅にいたシルヴァンへ静かに問いかける。
「シルヴァン。君に私がミブロだと教えたのは――誰だ?」
一瞬、空気が張り詰めた。
だがシルヴァンは橘花の出そうとしている答えの意味を理解したのか、淡々と答えた。
「隠すこともない。マーキアドの娘だ」
その声音に迷いはなかった。
橘花は目を細め、深く息を吐く。
――やはり、そういうことか。
これで、全てが一本の線に収束した。
橘花の中で「犯人」は確定した。
「あの村から“万能草”を盗んできたのも、そいつだな」
数人が驚きの表情を浮かべる。橘花は淡々と続けた。
「盗みの手柄を“偶然見つけた美談”に変えるため、あの里を賊として討伐対象にした。口封じも兼ねて、だ」
驚きにざわめく会議室、橘花は今までのことをガンジ含め、この場にいる者に順序立てて話した。
暴挙と言わざるを得ない話は、荒唐無稽だと切り捨てるには全ての点が線となり繋がり過ぎていた。会議室に重苦しい沈黙が落ちる。
貴族至上主義――その教えの下で育った者は、自分の都合こそ正義と信じ、他者の命を軽んじる。
橘花は低く吐き捨てる。
「どこまでも厄介で、最悪な考え方だ」
その声には、何度も理不尽を見てきた者だけが持つ、冷たい怒りが滲んでいた。
ーーーー
一旦マーキアドの娘の件は、ガンジに任せた。
流石に腹に据えかねた、というよりは逆鱗に触れたのだろう。知る限りの情報を渡すと、やる気満々で会議室から出て行ったので、橘花はそちらの件は完全に任せることにした。
ともあれ、仕事がなくなったわけではない。
蜜病の特効薬とも言える初級ポーションを製作していた。転移組の四人と。
狭い調合室に、乾いた薬草と湯気の匂いがこもる。
四人は手分けして、次々と薬草を刻み、煮出し、混合していく。
初級ポーションの製法自体は単純だが――「やれるのが自分たちだけ」という事実が、じわじわと肩にのしかかっていた。
「……また失敗か」
ウェンツがため息をつき、淡く濁った液体を処分する。
だが、隣ではエレンが淡々と新しい調合を始めていた。
「次は温度を二度下げてみる」
その冷静さに、少しだけ心が落ち着く。
実は、この世界に"初級ポーション"が売っていないという事実が、後で明らかになった。
ゲームスタート時に買えるのは、道具屋からのポーションだ。
初級も何もついていない、ただのポーション。
中盤辺りに行けるようになった頃、中級ポーションを売る雑貨屋などが現れ始める。
そうーー序盤で売っているのは"ただのポーション"で、"初級ポーション"ではない。
調合スキルで作れる最低クラスのポーションが、"初級ポーション"と呼ばれるものだ。
この調合スキルはこの世界でも持っている者はいるだろう、だからと言って実験や検証などしている状況ではない。
即行で製作作業に加われる者でないと意味がない。
ということで、橘花は有無を言わさず、男子四人を引っ張ってきて調合スキルを全力で使わせていた。
調合が成功するたび、四人はほっと息を吐いた。
けれど、その横で橘花は、当たり前のようにポンポンと成功品を並べていく。
同じ手順なのに、失敗が全くない。
ロイヤードが、堪らず言った。
「……なあ、橘花さん一人でやったほうが、効率よくね?」
橘花は手を止めず、淡々と薬液を濾しながら答える。
「私が倒れたり、死んだり、不測の事態になった時……誰がやる?」
ロイヤードはバツの悪そうな顔で頭をかいた。
「悪かったよ。ただ……あんたの成功率見てると、俺らのって無駄じゃね?って思えてさ」
「最初はそうだろうな」
橘花は笑い、次の薬草を刻む。
「でもやり続ければ違う。お前たちも同じようにできるのはわかってる。成功するとわかってて、わざわざ縛りプレイするほど余裕はないだろ」
「……確かにね」
ウェンツが笑い、調合に失敗した試験管を振りながら肩をすくめる。
「成功するってわかってるのにやらないのって、後味悪いし」
「成功率があるとないとでは雲泥の差だからな」
エレンが小さく呟き、手元の試験管を掲げた。
調合成功を示す淡い青色の液体が、灯りを反射して美しく輝いていた。




