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Pandora Ark Online.  作者: ミッキー・ハウス
蜜病狂騒編
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第68話

今回の感染症についてのガンジへの報告を終えた橘花は、この世界の対策の実情を目の当たりにして、机に手をついたまま小さく歯を食いしばった。


動きが遅い。

これでは――間に合わない。


「とりあえず、症状のある者は隔離ですね」


ガンジの横にいた職員のひとりが頷きながら書き留め、伝令を飛ばす。


感染症という言葉は、この世界にもある。

熱や咳を伴う病は人にうつる――それくらいは誰でも知っていた。

だが、その先がない。患者を一室に押し込み、誰かが付き添う。それで「対策」と呼ぶのだ。


水も手も消毒されず、看病役がそのまま市場を歩けばどうなるか。

火を見るよりも明らかだった。


「……やばいな」


橘花は心の中でつぶやいた。


病気の決定打になる鑑定をするために患者に会おうとしたが、ギルドから関係者でもないのに許可できないと、突っぱねられた。

もし、あの隠れ里で発生していた感染症ではなかったとしても、この感染力の強さと潜伏期間を考えれば現代医療の対策をねじ込まなければ、街ひとつ、最悪の場合は近隣の街や村に飛び火し、アウトブレイクが起こる。


橘花は立ち上がると一歩、前へ出た。


「患者の寝具と食器は専用に分けろ。看病役は必ず手を洗い、服も着替えさせろ。患者の家の井戸水も、絶対に使うな」


「……そんなことまで必要か?」

職員が眉をひそめる。

「隔離しておけば大丈夫だろう。いちいち水や服を変えていたら、手間ばかりかかる」


「手間を惜しんで街ごと潰す気か」

橘花の声音は低く、鋭かった。


一瞬、部屋に沈黙が落ちる。

口をつぐんだ職員に、ガンジが重苦しい顔でうなずいた。

「……聞け。橘花はこういう件に詳しい。言うとおりにしろ」


それでも不満げな目は残る。

だが橘花は一歩も退かない。


「今はまだ始まりだ。止められるのは今だけだぞ」


発した言葉は、誰にでもなく――むしろ自分自身への叱咤のようでもあった。

その焦りを伴った橘花の様子をガンジは、ジッと見ていた。


ーーーー


冒険者ギルドの職員や一部の冒険者は、橘花の言葉に従い、形だけは動き始めた。

寝具を分ける家もあれば、看病役に桶で手を洗わせるよう促す者もいる。

だが、それはあくまで「渋々」だった。


「……あの鬼人族の言うこと、本当に当てになるのか?」

「初めて見た顔だぞ? 何でそんなに詳しいんだ」

「まあ、やって損はないだろうがな……」


半信半疑の空気は隠せない。


街の住民に至っては、なおさらだった。

風邪なら寝ていれば治る。

それが、代々受け継がれた「常識」だった。


「昨日は熱が出たが、今日はマシだ。やっぱり寝れば治るんだ」


そう言って市場に顔を出し、知り合いと立ち話をする。

そして家に戻り、また寝込む。

その繰り返しだった。


またある者は、酒場で大声を張り上げる。


「酒で消毒になるんだよ! 熱なんざ酒で吹き飛ばしゃ治る!」


杯を何度も空け、節々の異常を訴えながらも倒れるまで飲み続ける。

笑い声と咳き込みが同じ卓で交じり合うのは、異様な光景だった。


「……頭が痛い」

橘花は額を押さえた。


伝えたはずだ。

清潔にすること。

水を分けること。

人混みを避けること。


だが、街の住人はそれを半ば笑い飛ばす。


「風邪ごときに大げさな」

「鬼人族は心配性だな」


そんな言葉が、あちこちで聞こえていた。

橘花がガンジにお願いして配布したマスク代わりの布も、子供の遊び道具になり路上に捨てられ、区画ごとに設置した消毒用の水も、使う者がいないと蹴飛ばして排水溝に流されたりした。


そして数日が経ち――症状が広がり、重症者が医者の家のベッドや床に至るまでを埋め、教会を間借りしてなお足らなくなった頃、再びギルドに人々が駆け込む。


「対処を知ってる鬼人族がいるって聞いた!」

「橘花殿、どうすればよいのだ!」

「家族が次々に……」

「子供がっ、子供の熱が下がらなくて……!」


橘花は答える。

しかし、その言葉は前に告げたのと何一つ変わらない。


「最初から、言ったはずだ」


だが、人々の耳に入ったのは「広がってから」だった。


ーーーー


「なんでもっと強く言ってくれなかった!」

「早く伝えてくれていれば、おじいちゃんは……!」


重症者が広がる前にはギルドからも通達が街に回ったはずだ。何度も、何度も。

なのに、今更自分たちは悪くないと、責める言葉を投げられる。

自分たちは普通に生活をしていただけ、それなのに……と、やり場のない怒りを対処を知っていたというだけで、橘花に向ける。


橘花は街の人々の様子を眺め、苛立ちを覚えつつも、ふと心を落ち着けた。

弟・トラストラムはここにはいないが、医療従事者として日々こうした現場に立ち向かっている姿を思い浮かべる。


「……あいつ、毎日こんなことを経験してるんだな」


頭が下がる思いが胸に広がる。弟なら、ここで誰も気づかない危険を察知し、淡々と対応するだろう。

橘花は自分自身も同じように、冷静に手順を示すべきだと再確認した。


小さくため息をつき、声に出して呟く。


「お前、我慢強かったからなぁ」


セクハラされても我慢するのはダメだけど、と橘花は心の中で苦笑した。

その言葉には、弟への敬意と、自分も負けてはいられないという覚悟が込められていた。

苛立ちや不安を一度胸の奥に押し込み、橘花は再び街の人々の方へ視線を向けた。


行動で示すしかない――その覚悟が、今の橘花を支えている。

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