第67話
ガンジに別室へ通された橘花は、椅子に腰を下ろすより早く切り出された言葉に耳を傾けていた。
「よくない物が街に入り込んだ可能性がある」
声は低く押し殺されているのに、言葉の端々から焦燥がにじむ。
橘花の脳裏に、街へ戻った矢先の光景がよみがえる。
広場を抜け、冒険者ギルドへ向かう途中――耳に残った会話。
「聞いたか? 老人が倒れたそうだ」
「ええっ、またか?」
「節々の痛みを訴えた数日後に血を吐いたらしい」
通り過ぎでの何気ない世間話を耳にしただけだったが、あの時の違和感が、形を持って迫ってくる。
意識を戻すとガンジの言葉が耳に入った。
「少し前まで節々が痛いだけだって笑っていたそうだ。だが、急に熱を出してな……解熱剤も効かん。そのまま吐血して亡くなった」
ガンジの眉間には深い皺が刻まれていた。
橘花の胸がざわつく。
――やはり、ただの風邪ではない。
「しかもだ」
ガンジは声を落とした。
「診ていた若い医者が倒れた。そのあと広場で遊んでいた子どもまで、似た症状で運び込まれた……」
「……連鎖的に感染、か」
口に出した瞬間、背筋を冷たいものが走る。
既視感。
それは、あの隠れ里を襲った『蜜病』の記憶と重なっていた。
軽い倦怠感と関節痛で始まり、発熱、そして解熱剤も効かず悪化していく。
気づいた時には手遅れ。人から人へ広がる病。
――もし、あれと同種のものだとしたら。
橘花は拳を握りしめた。
だが同時に、思考の奥で冷静な声が警鐘を鳴らしていた。
(早計に『蜜病』と名を出せば、ギルドも街も混乱する。似た症状を持つ別の病かもしれない。……決めつけは禁物だ)
「どうした、橘花?」
ガンジが怪訝そうに問いかける。
「いや……まだわからん。ただ、軽く見ない方がいい」
視線を落とすと、木目の机がかすかに歪んで見えた。
心の底に広がる黒い影――既視感が告げるものを言葉にできず、橘花はひとり迷路をさまよっていた。
ガンジとの話を終えたあと、橘花は四人を宿に戻したことを思い出した。
(……まさか、寄り道なんてしてないだろうな)
久しぶりの街だ。
露店も、娯楽も、彼らには新鮮に映るだろう。嫌な予感が胸を刺し、橘花は慌てて部屋を飛び出した。
だが、ギルドのロビーに足を踏み入れた瞬間、その息が止まる。
四人は、そこにいた。
まるで当然のように、橘花を待っている。
「宿に帰ったんじゃ?」
問いかけると、ロイヤードが頭をかきながら言う。
「橘花さん置いて帰るって、なんかなーって」
「うん、みんなで帰ろうと思って待ってました」と、ソータが笑顔を見せる。
その瞬間、胸の奥に温かいものが込み上げた。
だが、それどころではない。
「お前たち、ちょっとの間、私が飯を作る。それ以外のところで買い食いはなし、人が多いところも避けろ。手洗いうがいも徹底だ」
突然の指示に四人が目を瞬かせる。
真っ先に首を傾げたのはエレンだった。
「……インフルでも流行る?」
橘花は短く答える。
「それに似た物だ」
その言葉だけで、他の三人も察したようだ。
事細かに伝えずとも現代知識の共有ができているということが、これだけありがたいことはない。
深刻さを隠すように、けれど頷きはしっかりと重かった。
「……あれキツイんだよな。しかもこっち特効薬ないだろ?」とロイヤードがぼやく。
「了解しました。ロイが一番心配だけど、みんなで見ておきます」ウェンツが真面目に言う。
「ちょっ、フラグ立てんなよっ!」とロイヤードが慌てて叫び、三人の笑い声が広がった。
笑い合う声に、ほんの一瞬だけ橘花の胸も和らいだ。
だが同時に、その裏に潜む「得体の知れないもの」の影は消えなかった。
それをわざわざ口にすることは――橘花は、あえてしなかった。
ーー「家に持ち込むなー!」
ふいに脳裏に響いたのは、弟・トラストラムの声。
医療従事者の弟は殊の外、感染症対策には手厳しかった。
手洗い、うがい、自己管理。誰よりも徹底していた弟の叱咤。感染を広げぬための最も単純で、最も確実な防壁。
橘花自身は、街に入る前から蜜病の特効薬とも言える初級ポーションを服用し続けていた。
初期から中期症状でしか効かない物だが、鑑定の結果は正常。
自分が媒介ではないと断言できる。
だが、それでも――。
宿に戻る際の路地から聞こえてくる咳き込み。
人混みの中で、ふと視線を伏せて歩く者。
流れる噂話。
それらが、妙に耳にこびりつく。
まるで「何か」がすでに街の奥へと忍び込んでいるかのように。
不気味さは、じわじわと橘花の胸を締めつけていた。




