小話:誇りの残響
祖父から譲り受けた防具は、青年にとってただの装備ではなかった。
古びた鉄の表面に刻まれた幾筋もの傷跡は、かつて祖父が仲間と駆け抜けた日々の証だった。鍛冶屋としても名を馳せた祖父が、最後の槌を振るって鍛え上げた特注品。胸当てには家紋が刻まれ、肩当ての裏には、祖父直筆の短い言葉が彫られていた。
――誇りを忘れるな。
それを身にまとった日、青年は初めて冒険者登録を済ませた。胸を高鳴らせ、仲間と肩を組み、これから始まる未来に夢を描いていた。
だが、そのときすでに彼は目をつけられていた。
ベルゼ・ナトリュー。アルミルの街に流れてきた貴族出身の冒険者。外面は取り繕っていたが、冒険者の間では残忍な噂が絶えなかった。青年が祖父の防具を身につけていたことで、その目はぎらついた。
「いい鎧だな。臨時で俺とパーティー組もうぜ」
逆らえるはずもなかった。貴族の一声は、冒険者ギルドの調整よりも重い。青年は仲間と引き離され、ベルゼと組むことになった。
クエスト自体は単純だった。山間の盗賊退治。だが戦闘が始まるより早く、青年の悪夢は幕を開けた。
「その防具、寄越せ」
ベルゼの目は、獲物を狙う猛獣のようにぎらぎらと光っていた。青年が首を振ると、次の瞬間には両脚に鈍痛が走った。
とうとつに冷酷な一撃が、青年の膝を蹴り砕き、骨をへし折った。
地面に崩れ落ちても、青年は歯を食いしばった。
――これは、渡せない。祖父が遺した、俺の誇りだから。
その必死の抵抗を見て、ベルゼは口角を吊り上げた。
「じゃあ、指からいくか」
一本。
また一本。
骨が砕け、痛みが脳天を焼き尽くしても、青年は声を上げまいと唇を噛み切った。
盗賊退治という名目の裏で行われた暴虐は、誰も知らぬまま闇に葬られるはずだった。
クエストが終わった後、ベルゼは高らかに笑いながらギルドに戻った。
「この鎧はな、俺が貰い受けたんだよ。あいつが使うより俺に相応しい」
青年は「怪我を負った」とだけ報告された。実際には半死半生。折られた脚は時間が経ちすぎ、庶民がやっと手に入れられる中級ポーションでは癒せなかった。彼は車椅子生活を余儀なくされ、冒険者の道も断たれた。
それからの日々は、苦いものだった。
かつての仲間は哀れみを向けたが、やがて距離を置いていった。生きるために街角で小商いを始めたが、夜毎に夢に見るのは祖父の声と、あの日の惨劇だった。
――それでも、防具を奪われたこと自体は悔いていなかった。
命を投げ出しても、誇りを守った。それだけが自分を支えていた。
◇
三年後。
ベルゼ更迭の報は、思いがけず耳に入った。
街外れの小さな酒場。酔客のどよめきの中で、その言葉が流れ込んできたのだ。
「聞いたか? ベルゼの奴、討伐の最中にやられて失脚だとよ」
「ざまあみろ。あれだけ好き勝手やってきたんだ。天罰ってやつだ」
木のテーブルを叩く笑い声、あちこちから飛び交う罵声。
青年はグラスを握る手を震わせた。怒りではなかった。長年、胸を押し潰していた重苦しい塊が、音を立てて崩れていくのを感じたのだ。
あの防具が、ベルゼの死に際に無残に壊れ果てたことも耳にした。
不思議と悲しみはなかった。
「あんな奴に使われ続けるくらいなら、壊れてくれた方がいい」
その呟きは、自分でも驚くほど穏やかな声だった。
しばらくして、青年は街の大通りで彼を見かけた。
――橘花。鬼人族の大男。ベルゼを討ち、事件を解決へと導いた冒険者。
銀の髪が陽光を反射し、長身の影が人波を切り裂くように歩いていた。
人々は自然と道を空ける。畏れと敬意が入り混じった視線が注がれる中、青年だけは目を逸らさなかった。
胸の奥から込み上げるものがあった。
彼は、自分が失った誇りを取り戻してくれた象徴のように思えた。
気づけば、車椅子の上で深々と頭を垂れていた。
それは言葉よりも深い、感謝の礼。
橘花は振り返らなかった。だがそれでよかった。
青年にとっては、その背を見つめるだけで十分だった。
◇
橘花の背が街角の人波に消えていったあと。
青年は静かに息を吐いた。だがその姿を見ていた多くの目は、じっと焼き付けるように心に残していた。
その夜。
アルミルの大通り沿いにある大きな酒場《三日月亭》は、昼の出来事の噂で賑わっていた。
「聞いたか? あの鬼人族の冒険者が、ベルゼを討ったんだとよ」
「討っただけじゃないぜ。泣き寝入りしてた冒険者に正義を取り戻してやったんだ」
「ほら、昼間見ただろ? 車椅子の青年が、あの鬼に頭を下げてたんだ。まるで王に臣下が礼を尽くすみてぇに」
木製のジョッキを打ち合わせながら、酔客たちは言葉を重ねていく。
真実は誰も知らない。だが、誰もそれを求めなかった。
「ベルゼの野郎、冒険者から防具を奪ったって話もあったろ?」
「ああ、そりゃ俺も聞いたぜ。脚を折られて、指までへし折られたって……」
「だがよ、最後に笑ったのは誰だ? その青年は生き残り、鬼の冒険者は悪党を討ち取った」
「……いい話じゃねぇか」
酔いに頬を赤らめた老人が、ぽつりと呟いた。
それを合図にしたかのように、場は一層盛り上がる。
「つまりだ! あの鬼人族は、弱きを守る真の侍だったってことよ!」
「鬼だろうがなんだろうが関係ねぇ! アルミルの街は救われたんだ!」
「英雄だ! 英雄だ!」
歌好きの吟遊詩人が、即興で竪琴を鳴らしながら歌い始める。
「折られし脚にも 折れぬ誇りあり
それを拾いし 銀髪の鬼」
あっという間に酒場は合唱の渦と化した。
「鬼人族の英雄」「侍の冒険者」「弱きを守る剣」といった言葉が飛び交い、尾ひれがつき、真実と虚構の境目は曖昧になっていく。
――翌朝には、街の子供たちが「鬼の侍ごっこ」を始めていた。
――数日後には、旅の商人が「アルミルの正義を示した英雄譚」を他の街にまで語り広めていた。
そしてその中心には、必ず「車椅子の青年と鬼人族の邂逅」が置かれていた。
事実がどうであれ、それは街の人々の心にとって必要な物語だった。
腐敗した権力に抗う勇気を、守られるべき者に寄り添う強さを、誰もが求めていたからだ。
青年は噂を耳にするたびに、心のどこかがむず痒くなるのを感じた。
だが同時に、静かに微笑まずにはいられなかった。
――俺の誇りは、確かに生きている。
祖父の言葉が、酒場の喧騒に溶け込むように胸に響いた。




