第57話
律の生存を確かめ、胸に抱きしめたまま、橘花はふと周囲の惨状に意識を戻した。
ここはまだ、大惨事の渦中だ。
「ペーター、これを持っていってくれ」
橘花は万能霊薬の瓶を数本差し出し、低く静かな声で告げた。
「律のことはお前に任せる。今は休ませてやってほしい。あと、母親にも霊薬を飲ませて、回復を促してやってくれ」
離れることに不安げな視線を上げたペーターは、橘花の顔を見て、表情を引き締めて強く頷いた。
「わかった……師匠」
彼に託し、橘花は鉛のように重い足を動かし始める。
倒れた村人たちは命の瀬戸際にいる。見捨てれば、次々と命が絶えていく。
息のある者を一刻も早く回り、橘花は万能霊薬をためらわず振りかけた。
ペーターのように優しく飲ませる時間は、この混乱の中では到底許されない。
ストレージからありったけの霊薬を掴み取り、倒れた者たちにバシャバシャと叩きつけるように振りかけながら、声を張り上げた。
「目を開けろ!しっかりしろ!」
村長のザザンは、まるで三枚下ろし寸前の魚のようにぐったりしていた。
呼吸があるのが奇跡と思えるほどだ。
橘花は焦燥を押し殺し、迷わず霊薬を振りかける。
裂けた身体がまるで時間を巻き戻すかのように、みるみる回復していった。
数秒の重い沈黙の後、ザザンの目がぼんやりと開き、かすかな声が漏れた。
「……生きている……」
橘花の胸に、ようやく安堵の波が押し寄せた。
死の淵を彷徨う者たちの命を繋ぎ、生きている者すべてに霊薬を振り続けた。
焦燥と緊張、深い悲しみに包まれながらも、橘花の動きは無駄なく確実だった。
その姿はまるで、絶望の中に灯る一筋の光明のようだった。
——
息を吹き返した者たちは、死の淵からの奇跡的な復活に心を震わせ、橘花に手を合わせたり、涙を流しながら感謝を告げる者もいる。
だが橘花の胸にこびりついたのは、やりきれなさと、背負いきれない罪悪感だった。
確実に犠牲者が出ている以上、決して安堵できる状況ではない。
迫りくる現実に、彼女は静かに目を伏せた。
「さて」
村人たちの容態が安定し、ザザンもはっきりと受け答えできるようになったその時、橘花は気持ちを切り替えた。
「それで、君たちは共犯としてギルドに報告する。反論はあるか?」
ベルゼが連れてきた四人は、村人たちの介抱に忙しい橘花をよそに、邪魔にならない場所で呆然と立ち尽くしている。
逃げ出さなかったのは評価できるが、現状を見ているだけで何もしない態度に、橘花の苛立ちは頂点に達していた。
(尻拭いしている人間がいるのに、ただ見ているだけって……どんな教育受けてきたんだ、コラ!)
鋭い視線が彼らを突き刺し、冷たい風が吹き抜けるようだった。
「あ、あの……」
言いよどみながらも、聖騎士風の男が手を上げた。橘花への質問の意思表示だ。
「橘花さん、ですよね?【ミブロ】の」
「……なぜ知っている?」
質問に質問で返すのは無作法だが、今はそれどころではなかった。
胸の奥に不快な波動がざわつく。――もしかして、シルヴァンたちに情報を流したのはこいつらか?
橘花の視線にわずかに混じった敵意を察したのか、男は慌てて耳慣れない――いや、この世界の住人が知り得ないはずの言葉を口にした。
「俺たち、PAO初心者なんでよくわからないんですけど……緊急コールも使えなくて。ここってGMや運営の開発プログラムの中だったりするんですか?」
「……は?」
冷水を浴びせられたような衝撃が脳裏を駆け抜ける。
そんな言葉がこの世界で出るとは――絶対に信じられなかった。
アルミルの街でも幾度も聞き込みをした。
GMを知っているか、緊急コールを理解しているかと。
返ってきたのは、的外れな曖昧な答えばかりだった。
ここまで筋の通った明確な言葉を返した者は、一人もいなかった。
「……君は?」
声が震えるのを、橘花はどうしようもなく感じ取った。
「俺たち、クエストを受けて目的地に向かう時、目の前に現れた簡易ゲートを入り口だと思い込んで潜ったら……ここに出てしまって。
いつまで経ってもクエストクリアにならなくて、それで困ってたんです」
語られた内容は、橘花がここに辿り着いた時の状況に酷似していた。
 




