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Pandora Ark Online.  作者: ミッキー・ハウス
背負う未来編
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第56話

「し……し、しょぅ……きて、くれはん……れすね……」


ペーターは、それを笑顔にしようとしたのだろう。

だが、それは笑いとは似ても似つかぬものだった。

涙腺が壊れたかのように、とめどなく溢れる涙。

瞬きもせず、虚ろな瞳で、かすかに口元だけが笑みの形を震わせている。


その痛ましい表情が、橘花の胸奥を鋭く抉った。

――自分が迷わなければ。

もっと早く手を伸ばせていれば。

この子を、ここまで追い詰めずに済んだはずなのに。


「……遅くなった」


それだけしか言えなかった。


支えたペーターの体は、力を失い、そのまま橘花の胸に預けられる。

橘花は懐から万能霊薬を取り出し、手拭いに染み込ませると、血と汚れを優しく拭い取っていく。

触れたそばから、傷口はゆっくりと塞がっていった。

外傷が癒えると、別の瓶を取り出し、そっとペーターの唇に押し当てる。


「師匠……律がね……」


か細い声で、少年は語りはじめた。


「律……もらったペンダントに、いつもお願い事してたんです。

 『きっかが……かえってきますように』って……夜になると、いつも師匠が向かった方角に、ずっと……」


万能霊薬をゆっくり飲み下しながら、ペーターは途切れ途切れに続ける。


「帰ってきたら……抱っこしてもらうんだ、って……言ってたんです……」


言葉はそこで途切れ、次に漏れた声はかすれきっていた。


「……よかったなぁ、律……師匠、帰ってきたぞ……っ」


堰を切ったように、ペーターは声も立てずに泣き崩れた。

震える肩、握りしめた拳。

涙が、静かに橘花の胸元へと染みていく。


やがて涙が途切れると、無理に笑顔を作ろうとし、ひび割れた声が零れた。


「……師匠……律のこと、抱っこして……くれませんか」


十二歳の少年に、こんな言葉を言わせてしまった自分を、橘花は許せなかった。


「ああ」――短く、それでもできる限り優しく返す。


ペーターの腕から渡された律の体は、小さく、まだ温かい。

その重みが、胸に突き刺さるようだった。

こんな形で未来を奪われるなんて、出会ったあの日、誰が想像できただろう。


律が橘花の懐刀を守ろうとして殺されたことも、聞いていた。

あんなもの――捨てて逃げればよかった。

だが、この子たちに、それを守る理由を与えてしまったのは他ならぬ自分だった。


温かい亡骸を抱きしめ、橘花は静かにその重みを腕に受け止めた。

胸の奥底に、鉛のような絶望が沈み込んでいく——その時だった。


……すやぁ。


耳を疑った。

今のは……寝息?


「え?」


思わず律の顔を覗き込む。

小さな胸が、確かに上下している。

信じがたい光景に、全身の血が逆流した。

さっきまで押し潰していた悲壮感が、音を立てて崩れ去る。


「ペーター……律の傷、確認したいんだが」


声が震える。

だが、これは兄であるペーターの同意を得なければならなかった。

今の自分は男の姿——中身が女であっても、幼い少女の身体を勝手に見るわけにはいかない。


ペーターは混乱した表情のまま、そっと律の服の裾をめくった。

露わになった腹部には、致命的な刺し傷は跡形もなく消えていた。


「え……なんで……傷は?」


言葉が戸惑いに呑まれる。


脳裏に浮かぶ、あの懐刀の黒い鞘。

——そうだ。あれには、一度だけ命を守る力があった。

その刃は律の命を喰らうはずの死神の手を、確かに払いのけたのだ。


理解が追いつくより先に、胸の奥から何かがせり上がった。

強く、熱く、溢れ出すもの。


「……っ、生きてる……生きてる……!」


掠れた声は嗚咽と混ざって途切れ途切れになる。

橘花は律を抱きしめた。

小さな体は温かく、かすかに胸が上下している。

そのぬくもりを確かめるたび、これまで全身を締めつけていた氷が溶け、涙が頬を伝った。


——あの時は、間に合わなかった。


記憶の底から、濁流の音が蘇る。

雨ではない、空から降るものでもない。

背後から押し寄せてきた鉄砲水は、家を、畑を、そして祖父母を飲み込んだ。

自分も一緒に流された。

運が良かった? 奇跡だった? そんな言葉で塗り固めても、胸の奥の後悔は消えない。

もし早く避難を促していれば。

もし、自分があの時、もっと動けていたら——。


——けれど今は。


橘花は律をさらに強く抱き寄せる。

温もりが、重みが、命の証が、両腕の中にある。

ペーターもその場に膝をつき、震える指先で妹の手を握る。

命の鼓動が返ってくるその瞬間、彼の瞳から大粒の涙が零れた。


「……律」


橘花は、その名を低く震える声で呼んだ。

片手をゆっくり持ち上げ、濡れた髪の束を耳にかける。

指先に触れる髪は湿って冷たいが、その下の皮膚は確かに生きている熱を帯びていた。

頬に触れる。

小さな丸みを指先でなぞると、律が微かに身じろぎした。

その反応が、まるで夢ではないと告げてくれる。


——もう失わなくていい。

——まだ一緒に笑える。


その瞬間、ペーターの胸にも何かが弾けた。

橘花が律の頬に触れた、ただそれだけの動作が、彼にはあまりにも優しく見えたのだ。

緊張で固まっていた表情が、静かにほどける。

安堵と感謝、言葉にできない幸福が入り混じった笑みが、涙の中に浮かんだ。

彼は小さく嗚咽しながら、二人に滲む視界を向けた。


その目に映るのは、命を守り抜いた腕と、そこに包まれる大切な妹。

そして、その全てを見守る自分。

三人をつなぐ絆は、確かに今ここにあった。

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