第53話
ただただ、律に必死に泣き縋るペーターの声が、どこか遠くから響いてくるようだった。
まるで時間の流れが自分の周りだけゆっくりと動いているかのように、橘花の脳裏に先ほどの光景がフラッシュバックする。
村の入り口で倒れていた青年。
顔を土に埋めた農夫。
踏みつけられ、泥にまみれた女性。
首から上のない人影。
そして、目を見開いたまま横たわる幼い少女。
荒い息が胸を突き、鼓動は早鐘の如く打ち、橘花の視界は歪み始めた。
――律が、死んだのか。
――殺されたのか。
――なぜ、どうして。
ここは――――。
だが、逃げ場のない現実が牙を剥く。
これは、ゲームではない。生と死が確かにある「現実」だ。
クエストをこなし、傷は回復薬で塞ぎ、日常のように食事処で料理を口にしてきた。
けれど、本当の意味でゲームの感覚が抜けきっていなかった。
そしてその幻想は、残酷なまでに引き剥がされた。
心の奥底から、何度も繰り返し見てきた悪夢が、嗤うかのように囁く。
《また後悔するの?》と。
(――――後悔なんて――――)
震えそうな足が、やがて確かな力を伴い、大地を踏みしめた。
「……ずげて……、じじょうっ、だずげでっ!」
銀の大剣が重く振り下ろされる――その一瞬前、世界の時間が凍りついたように感じた。
ペーターの叫び。
弱者を蹂躙する男の冷たい笑み。
母親の叫び。
そのすべてが、橘花の胸に焼きついた。
(――――絶対に、しない!)
橘花は躊躇わなかった。
走り出した直後、向かう直線上に躍り出た邪魔な召喚魔人を反射的に斬り伏せ、目にも留まらぬ速度で体を沈め、ペーターと巨大な刃の間に滑り込む。
風を切る音をさせながら迫ってきた冷たい鉄の刃先を、橘花が目の前で止めると鋭い金属音が鳴り響く。
振り下ろされたその剣の軌道の先に、確かに小さな弟子の姿があった。
橘花の血が一気に沸騰する。重い大剣の圧力を受け止め、刃の振動が体に伝わる。
それでも、決して後退はしない。守るべき命がここにあるからだ。
鋭い刃の一撃を身に受け止めた瞬間、橘花の心は、怒りに燃え上がっていた。
「てめぇ、うちの弟子に何してやがるっ!?」
ギリリ、と金属同士がかすかに擦れ合う音が、二人の間で冷たく鳴り響く。
しかし、その音に宿る力の均衡は幻想だった。橘花の瞳が鋭く光るほどに、実際のレベル差は開いている。相手はまるで遊ぶ相手にもならない駒のようだ。
男は顔を赤くし、荒々しい気迫を込めて無理やり橘花に斬りかかる。
だが、その剣先は橘花の刀一つで軽く弾かれた。
「ふっ」と小さく吐息を漏らしながら、橘花は瞬時に距離を詰め、男の懐へ滑り込む。
当て身一閃。鈍い衝撃と共に男の体がふわりと浮き上がり、宙を舞った。
飛ばされた男は数メートル先の地面に叩きつけられ、しばらく動かない。
弱い。だが、橘花は手加減などしない。
怒りの炎は燃え尽き、冷静さが彼の中に静かに戻ってきていた。
剣を握る手に残る熱量は、ただ一点に研ぎ澄まされている。
相手の力はあるが、今の橘花には恐怖はなかった。
あの時の震えも、躊躇も、すべてが洗い流された。
子供の頃、暴力に怯えたあの日の自分を思い出す。
けれど今の橘花は違う。
義も無き暴力に屈しないために。
守るべき者たちのために。
自分の命を懸けて、立ち向かう覚悟が、胸に静かに、しかし確かに灯ったのだった。
(暴力は嫌いだ…こんなにも嫌いなのに…)
今は意味を成さない言葉が、橘花の脳裏を通り過ぎていく。
そんな心の呟きに対して、どこからか声が響いた。
「否――暴力というのは、義もなきものに振るう力のことである」
その言葉はまるで、橘花の胸に突き刺さり、同時に覚悟の行使を促すように静かに響いた。




