第52話
現状を説明しようにも、橘花自身の衝撃が強すぎて言葉にできなかった。
そこでイベントリから、マリアに貸してもらった記録装置をそっと取り出す。
記録装置といっても、見た目は四枚のプロペラがついたドローンだ。
空に放つと意外にも音は静かで、橘花はほっと胸をなでおろす。
橘花の顔より少し上くらいでホバリングしたドローンの位置より、少し斜め下に透明なスクリーン画面が空中に表示された。
撮影対象から離れている距離や角度、視点などの設定ができる。使い方はゲームの仕様と変わらないらしい。
皮肉だ。
どうせならこの世界も戦闘不能程度で誰も死なない世界であればよかったのに。
リアルで暴力を振るうことを、橘花は嫌っている。
小学四年の頃、同じ学校だった六年生の男の子とその取り巻きにいじめられていた弟トラストラムの間に割って入ったことがある。
子供の遊び場としてコンクリートの小高い山が作られた区間で、なんちゃってピクニックのつもりで頂上にいたトラストラムは、後から来た六年生のガキ大将とその取り巻きに自分たちの場所を勝手に使った“場所代”として持っていた小遣いとお菓子を盗られていた。
取り返そうとして返り討ちにあっていたところを、帰り道の途中だった橘花が目撃し、正義感の塊だった彼女は泣かされ蹴られる弟を見て突撃した。
止めに入ったのが体の小さい橘花だったため、バカにされ、力押しで山の上から突き落とそうとしたのは六年生の男の子だった。
後で考えれば、怖がらせて追い返そうとしたのだろう。
そこで起きたのは、不慮の事故だった。
橘花も落とされてなるものかと、必死に相手の服を掴み抵抗し、腹に蹴りを入れていた。
均衡が崩れたのは相手の体重を押し返し切れなくなった瞬間。
急斜面になった場所で二人は同時にバランスを崩し、橘花はコンクリートの隙間から生えていた雑草を掴んで落ちながら耐えたが、相手は掴まるところがなく、そのまま斜面を転げ落ちていった。
現場にいた取り巻き達からは、橘花が突き落としたように見えただろう。
落下した六年生は痛みとショックで泣き叫び、近所の大人が騒ぎを聞きつけ一部始終を見て救急車が呼ばれた。
取り巻き達は橘花が突き落としたと証言したが、弟が目を腫らしながら「ねーちゃんが助けてくれた」と話し、別の大人からの言葉で正当防衛と判断された。
六年生は脚と手首の骨折に打撲。幸いにも生命は助かった。
相手の親から謝罪はあったが、反省はしていない目だった。
だが、このことで、ついさっきまで「死ね」と言い合っていた相手が本当に死にかけたことに恐怖を覚え、想定よりも相手に酷い結果をもたらすことがあると橘花は学んだ。
――――本気じゃなかった。
本当にそうか?
死ねと言った時は、相手がどうなろうと考えなかった。
結果を見て怖くなっただけだ。
言葉の意味が実現した時、その責任を負いたくなくて逃げ道を探す。
正当防衛にしがみつき、相手が悪いから自分は悪くないと自分に言い聞かせていた。
罰が下ったと思ったのは、その事件から一年後だった。
刀を振るうこと自体は悪いことではない。
ゲームの中なら、0と1でできた世界であれば躊躇しなかった。
相手が生命ある者で、人の形をしているという点を除けば、腰の刀を掴んだ手は素早く抜刀し、戦闘態勢に入れていただろう。
血腥い臭いに感覚が麻痺しそうだった。
村を助けたい気持ちはある。
だが、ここで刀を抜いて戦えるのか、自分が。
技が使えない状況で。
もし使えたとしても、刀を抜いた後に正当防衛だと逃げる道は残されているのだろうか。
そして自分があの首のない死体にならない保証はどこにある?
そう考えると、握る刀の柄に力が入りすぎて足が地面に縫い付けられたようだった。
「この餓鬼がぁぁあああっ!」
思ったよりも深く考え込んでいたせいか、突然の大声に自然と視線を橘花は向けた。あ、と声が漏れる間もなく、身の丈ほどもある大剣が律に振り下ろされるところだった。
陽の光を反射する銀の刃が律の体を貫通したのを見た。大剣を持った男の影から見えた律のその小さな手が一瞬、びくりと震えたように見えた。
「りふ、りふりふっ、りふ……!」
妹を呼ぶペーターのくぐもった声が虚しく響く。
橘花の心は凍りついた。
まるで時が一瞬止まったかのように、周囲の音や動きが遠のいていく。
「この……っ」
怒りと無力感が混ざり合い、胸の奥で渦巻く。
しかし、今は何もできない。
律の痛みに呼応するかのように、ペーターの声が空気に染みわたる。
それを聞くたび、橘花の中の何かが鋭く裂かれるようだった。
「こんなところで……何をしているんだ……」
震える声でそう呟くも、言葉は虚しく響くだけ。
現実が非情であることを、橘花は痛感しながらも、わずかな可能性を探そうと必死だった。
だが、それは同時に自分の無力さを認めることでもあり、苛立ちが増していった。
彼女の目には涙が浮かびそうになるのを必死に堪えながら、まだ動けぬまま、その場に立ち尽くしていた。




