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Pandora Ark Online.  作者: ミッキー・ハウス
守るための刃編
45/134

第44話

ペーターの回想

他のライトな文より長めに書いています。

冷たく澄んだ川のほとり。

薄明の空気が静かに満ち、鳥のさえずりが遠くから聞こえてくる。


ペーターはゆっくりと歩みを止めると、ひとまず腰を下ろし、背筋をピンと伸ばした。

まだ眠気の残る身体を引き締めるように、深く息を吸い込み、そして静かに吐き出す。


彼の前に置かれた黒漆の鞘。

目を閉じて己の動きを思い返しながら、ゆっくりと、懐刀を鞘から真っ直ぐに引き抜く。

刃が朝の光を受けて冷ややかに煌めいた。


一瞬、その輝きをじっと見つめ、呼吸を整える。

そして静かに、まるで壊れ物を扱うかのように丁寧に、鞘に刃を戻す。


やがて目を閉じて、呟く。


「橘花師匠……」


澄み渡る朝の空気に、名前が静かに溶けていった。


 † † † † † †


ある日、村で異常事態が起きた。

何人もの死人が出たあと、今度は病で次々と村人が倒れたのだ。


ペーターは父から教わっていた。『万能草』は万病に効くということを。

生前の父トーマからその話を聞いていた村長のザザンも、村の全員を救いたいと願い、ペーターの母に薬草を分けてほしいと頼んだのが事の始まりだった。


しかし、今年の異常な暑さで生き残った万能草は、わずか三株しかなかった。

普段は滅多に使わない薬草だが、最後に採って大切に育てていた母も、村のためなら夫も許してくれると了承した。


病人に煎じた薬草の汁を飲ませると、確かに幾分か痛みは和らいだ。

決定打ではないものの、唯一の救いと知れば、村の誰もが手を尽くした。

乾いた大地のように暑さに耐える万能草に水をやり、日陰を作り、命綱のように必死に守り続けたのだ。


唯一の収入源でもある薬草だが、命に代えられるものではない。


そんな大切な薬草が、ある日、三株もごっそりと持ち去られた。

村は騒然となり、村の外れで薬草を持ち去る少女の姿を子供たちが見つけたと伝えた。


村人たちは剣を手に追いかけた。

その剣は五年前、要塞から逃げる時に身を守るために持ってきた、わずかな武器のひとつだった。


森の中、ペーターは少女を追い詰めたと思ったその瞬間、出会った。

銀の髪、緑の瞳を持つ鬼人族の青年に。


父親以外の鬼人族と話すのは初めてのことだった。

五年前、浅葱色の羽織袴を纏った【ミブロ】の戦士たちが敵を斬り殺す姿を目撃し、鬼人族に恐怖と畏敬を抱いていたペーターには、その青年が少女を庇う姿が衝撃だった。


しかしその青年は話せる人物だった。


村の事情を知り、病人を助けようと動き出したその時、ペーターは夢でも見ているのかと思った。

村人たちの間では、鬼人族に対する疑念と冷たい視線が渦巻いていた。


誰かの娘を利用し村に取り込むか、犠牲になった鬼人族の悲劇を思えば、恩人に対しても冷たく距離を置く者もいた。

それでも、助けてくれるなら、せめて作物の育て方だけでも学ぼうとする者もあった。


村長ザザンは、こうした密談を知らず、知らぬがゆえに、村の亀裂が深まることも気付かない。

ザザンはかつて冒険者で、傷を負って引退し、前の村長の娘と結婚したよそ者だ。

ペーターの母も外から来た者だったため、村の一部は彼らを快く思っていなかった。


村の内情を知り、嫌悪を募らせていたペーターは、病人のいる洞窟にのこのこと入ってきた青年に、つい厳しい言葉を投げてしまった。

あとで、良からぬことを考えている者もいると教えてやってもよかったかも知れない、そう思った。


その夜。

与えられた恵みに誰もが群がり、豊かに実ったトウモロコシを囲み、久しぶりの賑わいを喜ぶ村人たち。

柔らかく甘い実に、子供たちは嬉しそうにかじりついた。


そんな中、誰かが橘花を呼びに行ったと聞く。

だが彼は、宴の輪には加わらず、静かにその様子を遠目に見てから森に入ったのだという。


利用しようと話し合う数人の姿が隅でちらつき、酒に酔わせて既成事実を作ろうとする思惑が実らないことで苛立つ者たちの舌打ちを聞きながら、ペーターは内心で冷笑した。

「ご愁傷さま」と。


 † † † † † †


夜の森には誰も入りたがらなかった。

獣や凶暴化したモンスターが潜むためだ。


だが、ペーターは違った。

鬼人族の血を引いているため夜目が利く。

暗闇に慣れた瞳は、村の大人たちが怖がるほどに光を反射する。

それゆえに、彼は髪で目を隠し、同じ色の角も見えぬように俯いて歩くことが多かった。


妹の律は、肌以外は父親似だが目だけは違う。

人間族の見た目のまま、緑色の瞳は夜の闇に溶けず、どこか羨ましく思ったこともあった。


そんな思いを胸に、ペーターは川へ辿り着いた。


しかし、そこには異様な光景が広がっていた。

赤い紐で木々を繋ぎ、鈴が張り巡らされている。

番をする者のいない篝火が、闇を照らし続けていた。


――リィン。


背後で鈴が鳴る。振り返ると、牙を剥き涎を垂らしたレッサーウルフがいた。

気づかずにいたら、後ろから襲われていただろう。

今まで何度か夜の森に出入りしても襲われなかったのは、運が良かっただけだと痛感する。


レッサーウルフが噛みつこうとするが、見えない壁に阻まれ、体当たりを繰り返す。

鈴の音が森に響き渡った。


恐怖に駆られ、ペーターはその場から一目散に逃げ去り、橘花の姿を探した。


川沿いの篝火に囲まれた大きな釜の前で、橘花が晩酌していた。

ほっとする一方で、呆れてしまう。


彼の手には美味しそうなものがあり、目を奪われていると、いつの間にか三本のからあげ串に増えていた。


「叩いて増やすビスケットの原理だ!」


父が昔教えてくれたお菓子の増やし方だと目を輝かせていると、橘花はからあげ三本と引き換えに風呂に入ることを提案してきた。

決して食べたいわけじゃないと言い聞かせて了承する。


まずはかけ湯で粗方の汚れを落としてから、風呂へ入った。


幼い頃、まだ額に目立つ角が生える前。

父が衛生面を説きながら風呂に入れてくれた記憶が蘇る。

よくわからなかったが、その後三日に一度は強制的に体を洗われていた。


ここ五年は川で顔を洗うくらいで済ませていたため、湯船の温かさに思わず気を緩めてしまう。


鬼人族のことを聞き出そうとしたところ、話は父親の話題に及んだ。

父が角を折られた経緯に橘花が真剣な表情を見せるため、つい話してしまう。

父を責めるような口調もあった。


【ミブロ】は悪者を討つ正義の味方。

五年前の厄災の前に、父母にせがんで聞かされたお伽噺のような話だった。


弱き者を守り、強き者を挫き、罪の償いを拒む者には等しく断罪を与える。

氷の大地の大猿も、地底の毒霧を吐く大蛇も、炎を吐く山のような竜さえ恐れない。

立ち塞がる敵は必ず倒し、勝利を手にするのだと。


もしそれが本当ならば、村人たちの所業は許されるものではない。

しかし、これで村人が殺されても仕方がないと思う自分もいた。


「……守り方ってのはな、色々あるんだ」


「あんなの守り方じゃねぇ!」


父の行動を肯定され怒りが再燃する。

橘花のもとを飛び出すと、背後から声がかかったが、聞こえないふりをした。


怒りに任せて村へ走り戻る。

森の中にレッサーウルフがいるかもしれないことは頭の片隅にもなかった。


お祭り騒ぎの村の輪には入らず、家に帰って寝床に潜り込む。

古びた布団に包まりながら思う。


なぜ、こんな村を守る必要があったのか?

愛想笑いを浮かべて薬を受け取りながらも、容姿や強い力を理由に化け物呼ばわりする者たちはいなくならなかった。


だが、ここまで橘花に怒りを露わにしたかの理由を、ペーターは自分で理解していた。


世話好きなのか――躊躇いもなく自分の前に屈み、乱れた服の皺を伸ばして、着崩れている部分を整えてくれる。

まるで親のように、そんなことをされたからだ。


篝火に照らされて銀色に輝く橘花の髪が、ふと一瞬、琥珀色に見えた。

見間違いだ。

それはわかっている。

でも、父親に諭された声が、どこかで聞こえた気がしたのだ。


今年で十二歳になるペーターにとって、五年前の父の姿はもう、朧げな記憶だった。

怒った顔も笑った顔も声も、まるで霧がかかったようにぼんやりとしていて、はっきりと思い出せない。

ただ、特徴的な断片だけが残っている。


病が村に一気に広がったあの日、慌てふためき絶望に沈む村人たちの姿を見て、父を見捨てたから天罰が下ったのだと、心の奥で密かに嗤っていた。


それを、朧げな記憶の中の父に叱られたような気がした。


それでも――


「父ちゃんはもっと男らしかったし、髪も短かったんだ! バカじゃねぇの、俺っ……」


幻の父に言い訳するように呟いた声は、震えていた。


 † † † † † †


翌朝、ペーターが目を覚ますと、額に甲虫が乗っていた。

「んぎゃー!」と叫びながら慌ててはがし、甲虫を外へ投げ捨てる。足に絡まっていた髪が何本か一緒に抜けたが、気にしていられなかった。

枕元で二匹の蟻が死んでいるのを払い落とし、山羊の世話を済ませる。もらっておいたトウモロコシ三本分の粒を潰して煮た粥もどきを携え、母親と妹のもとへ向かった。


いつもとは違う甘い匂いに、母は材料を街から買ってきたのかと心配するが、妹の律は美味しいと笑顔を見せた。

普段はほとんど残してしまう粥や汁を、今日は二人とも甘味のおかげでよく飲んでくれたので、ペーターは少しだけ胸をなでおろす。


朝のやるべきことを終え、朝日が昇る頃、ザザンから頼まれて橘花を川辺へ呼びに行く。


鈴の音や篝火はまだ残り、橘花がいることを告げていた。

昨日、風呂に入れてもらった場所のあたりで、橘花が座り込み何かに熱中しているのが見えた。


「よう。起きてたか、あんた」


呼びかけると振り返った橘花の顔色は悪く、鬼人族特有の灰色がかった肌の色からもそれがわかる。

思わず心配の言葉が口をついて出た。


「わざとだから」


そう言いながら、橘花はどこからか瓶を取り出す。

やはり似ている。幼い頃、父親がペーターに見せてくれた、叩くと増えるビスケットの魔法のようだ。


「それ、どこから出してるんだ?」


「手品だよ」


父親も橘花も、肝心なことは教えてくれない。少しムッとしながらも、ペーターは村長の使いで来たことを告げた。


橘花は疲れた顔のまま、まだ朝ごはんを食べていないと言いながら、握り飯を取り出す。

これもまた父親がよく作っていたものだ。橘花の手にあるようなきれいな三角形ではなく、少し丸みを帯びた不格好な形だったが。


「食べていいぞ」


そう言われ、まだ朝食を済ませていなかったペーターは一つもらうことにした。もちろん、大人の味だという梅入りの握り飯を。

一口で半分をかじると、衝撃が走った。酸っぱくて顔が歪むが、まずいわけではない。

食べ物を粗末にしてはいけないという教えはしっかり身についているので、吐き出したりはしなかった。


「無理なら交換しようか」


橘花にそう言われ、「食える」と意地を張った。

――父ちゃん、大人の味って酸っぱいんだな。


次に食べる機会があれば、絶対に選ばないと心に決めながら、ペーターは村長の家へと向かった。


その後、村長の家でザザンが村の現状と対策を尋ねたが、橘花の答えは芳しいものではなかった。

それでも橘花はお手上げだと逃げ出すのではなく、力を尽くすと申し出たことに、ペーターは驚きを隠せなかった。


鬼人族はお人好しなのか――。

死人が出ている病に誰も関わりたがらないはずなのに。


すぐに解決策が出ると思っていた一部の者は橘花に不満をぶつけたが、彼が村に来てまだ一日も経っていないのだ。

あまりに身勝手すぎるその態度に、ペーターは呆れた。


話し合いとは呼べない集まりから解放され、川の方角へ戻る橘花の後をついていく。

何度も額を押さえるその仕草に、具合が悪そうに見えた。

朝の姿を見ていたペーターは、橘花が夜も寝ずに対策を考えていたのだろうと推測した。


「だから言っただろ。もう諦めて出て行けって。……あー、うぜぇな」


橘花が一人で考え込む姿に、つい憎まれ口を叩く。

村の連中は自分たちの問題なのに他力本願で助かろうとしていて、村とは関係のない橘花に無理難題を押しつけている。

父親が苦笑しながらも対処していた姿を思い出し、苛立ちは増すばかりだった。


寄ってくる蝶を必死に追い払いながら、橘花の後ろをついて歩いていると、ふいに彼が振り返った。


「ちょっと待て。蝶が寄ってくるのか? 蝶だけか?」


「起きたら枕元に甲虫もいたし、。蟻も登ってきてた」


その言葉に、額に甲虫が乗っていた恐怖の朝の記憶が鮮やかに蘇る。

思わず視線を逸らす。恥ずかしさと情けなさが胸を締めつけた。


「ペーター、サンキュー!」


いきなり橘花が抱きついてきて、驚きと戸惑いで声が出た。


「ぎゃぁっ、なんだよいきなり! 抱きつくな!」


心の準備ができていなかったペーターは狼狽え、硬直してしまう。

「よーしよし、わっしゃっしゃ」と不思議な掛け声とともに撫でられ、体が固まる。


けれど橘花は振りほどくことなく、ぽつりと言った。


「調べ物がある。薬ができたら協力してくれ」


そう言い残し、川辺へ歩き去っていく背中を、ペーターはぽかんと見送った。


「……薬が、できるのか……?」


言葉の意味がじわじわと胸に染みていき、慌てて彼の後を追った。


森を抜け、川辺に着くと、橘花はすでに薬の調合を始めていた。

透明な瓶の中で液体が青く変色し、その変化をじっと見つめながら瓶を振る姿は、まるで父の薬師姿そのものだった。


幼い頃、蔑む村人たちの冷たい視線を受けながらも、父が薬を作る背中に誇りを感じていたあの日を思い出す。


薬師(くすし)は立派な仕事だと、幼い心にしっかり刻まれていた。

だから、父に向けられる悪口は耐えられなかった。

だが父は、いつも穏やかに受け流していた。


『なんで父ちゃんをバケモノ呼ばわりするような奴らに、薬を作ってやるんだよ!』


幼いペーターは怒りに震えながら叫んだ。


『いいか、ペーター。頼まれたからとか仕方ないからとか、そんな言い訳にはならん。これはな、父ちゃんがしたくてしてるんだ』


背を向けて薬を調合しながら、父はそう静かに言った。


その言葉を思い出しながら、幼かった自分が父を「弱虫」だと軽蔑したことを思い出す。


それから憧れは剣士へと向かい、五年前の事件を境に強くなる決意を固めた。

だが、本当はなぜ剣を持ちたかったのか、その心の奥底には気づけなかった。


(そうか、おれは……【ミブロ】と同じ鬼人族の父ちゃんを馬鹿にされるのが、何よりも嫌で……。だから誰にも負けないくらい強くなって、()()()を守りたかったんだ……)


橘花の温厚な振る舞いを、時にお人好しだと笑いながらも、ペーターは苛立っていた。

本物の【ミブロ】なのに、父と同じく誰にでも優しく、文句ひとつ言わず手を差し伸べる。

自分は剣だけに頼ろうとして、そんな強さすら理解していなかったのだ。


命を懸けて力だけじゃ駄目だと、父は背中で語っていた。

なのにおれは、まだその境地にすら届いていない。


橘花に苛立っていたのは、自分の無力さを直視できない弱さの裏返しだったのだと、やっと気づいた。


「っ……父ちゃん、ごめん」


小さく呟いたそのあとに、橘花が呼びかける。


「ペーター、そこにいるんだろ」


「お、おう。いるぞっ」声が裏返るが、橘花には聞こえていなかったらしい。

さっきの独り言に反応されたと思うと、急に挙動不審になるペーター。


「……気づいてたのかよ。なんで黙ってた」


取り繕いながら気まずい気持ちで草むらから出ていく。

まだ会って間もない他人の橘花には、どうしても見栄を張りたかったのだ。


しかし、その後、直接ではないが感染していると告げられ、ペーターは青い液体の薬を飲むこと決めた。

半信半疑だったが、薬の臭いは強烈でとても美味しいとは言えなかった。

次第に体にまとわりついていた蝶たちが離れて行くのを信じられない気持ちで見送る。


ーーー本当に薬ができた!?


薬が完成したという急展開に、村人たちは目を白黒させていた。

村長から言われたとはいえ、橘花の手伝いを申し出る者が現れたのは予想外だった。


やがて洞窟にいる病人たちの回復が確認されると、村人全員に新しい服が無償で配られた。


ペーターは驚いた。

簡素ながらも、自分たちの普段の服より明らかに上質な布が使われていたからだ。

「本当に無償か?」と疑いたくなったが、病気を根絶するために今日明日に新しい服を用意できるかと問われれば、無理だろう。

橘花の「今回だけだ」という言葉に甘えた。


その服には綺麗な端切れが縫い込まれていて、女性たちは奪い合うように喜んだ。

病気から回復して元気になった彼女たちを見て、村の男たちは呆れつつも笑い合っていた。


その夜は、新しい服をまとい、満足に食べられる食事にありつけたことで、村全体がふわりと浮かれた。

病を根絶するための仕事は残っていたが、翌朝行うことになり、誰もそれを苦痛とは感じていなかった。


村人たちは次第に、心の底から橘花に感謝し始めていた。


 † † † † † †


ペーターの「剣で戦いたい」という漠然とした目標は、昨日までの彼のものとは全く変わっていた。


――橘花みたいな男になりたい。


剣を抜いた時の凛とした佇まい。

村のために悩み、薬を調合する背中。


それらが、ペーターの中で、父と同じくらい尊敬し、目指すべき未来の姿となっていた。


どうすればそうなれるのか、考えるまでもなく答えは明快だった。


夕方になり、橘花のいる川辺に降りてみると、見たことのないテントが立っていた。


ペーターはすぐに、橘花が新しく作ったものだと見当をつけ、中を覗く。

眠る橘花がいて、手の届く側には刀が置かれていた。


中性的な顔立ちに凛々しさが滲むその姿は、一瞬女性にも見えたが、確かな強さを感じさせた。


(この人から剣を習いたい)


剣だけじゃない。


ついていけば、薬草の知識も学べる。

父のような薬師になることも、夢ではない。

もし叶うなら、【ミブロ】の一員となって、橘花と肩を並べたい。


育ち盛りの小柄な体は、長期の栄養不足で小さく見えるが、橘花に付いていけないほど弱くはなかった。


(数日は村にいてくれるはずだ。その間に剣を教えてもらおう。そして、どうにか頼んで一緒に連れて行ってもらうんだ――)


母親を説得し、村長のザザンに村を出る許しを請うつもりだった。

その時間はきっとある。そう高をくくっていた。


橘花が目を覚ましたとき、テントに入っていいと許された。

土を払い、靴を脱ぐ。これも、父から教わった鬼人族の習慣だと後で気づくことになる。


まず、どうしても聞きたかった薬のことを尋ねる。

薬師は、自分の命ともいえる薬の調合を決して他人に教えないと聞いていた。

まして、『万能草』すら効かない病の特効薬など、なおさらだ。


だが、橘花はあっさりと教えてくれた。

同じ病を治した仲間がいること。しかもそれが、【ミブロ】の副官――侍――だという事実に驚いた。


しかし、橘花が明日にも村を発つと知り、ペーターの胸は焦りで焼けついた。


母や妹を置いていく覚悟はあったが、まさか明日だとは思わなかった。

まだ病後で、満足に家事も家畜の世話もできないかもしれないのに。

けれど、今を逃せば、もう二度とチャンスは巡ってこない。


それは、生まれて初めての一大決心だった。


「なあ、俺に剣を教えてくれないか?」


「今の流れでどうしてそうなる?」


「言っただろ。おれは剣で戦える男になるって。戦えるようになりたいんだ!」


「強さに憧れるのはいいが、お前にはまだ早い」


「とにかく、お前が明日発つなら、俺もついていく!」


「はぁっ!?」


橘花は驚いて体を半分起こした。突然の申し出に、当然だ。

母や妹のことも指摘されたが、ペーターは必死に食い下がった。

何が何でも、剣を教えてもらいたいのだ。


「わかった、わかった。ただし約束しろ。俺が教える剣術は、自衛以外には絶対使うな」


「約束するっ!絶対守る!」


願いが届いたと、ほっと胸を撫でおろした。

ふと橘花の手を見ると、光沢を放つ黒漆塗りの柄と鞘の懐刀が握られていた。


銘行光(めいゆきみつ)。これがお前の懐刀だ」


「……めいゆきみつ」


短刀、懐刀――幼い頃、父の懐刀で悪戯をして手を切り、叱られた記憶。

成人したら父から懐刀を譲り受ける約束も、村が襲撃されたときに鉄の襲撃者に押収されて失われてしまった。


鬼人族では、大人と認められる儀式として親や師から一振りの懐刀を授かる。

それをもらえなければ、大人とは言えない。


(橘花から大人と認められるんだ!)


その高揚で目が輝く。

橘花が示した儀式の意味はまだよくわからなかったが、簡略版だろうと真似をする。


「復唱しろ、金打(きんちょう)


「き、きんちょう……!」


手前に持つ刀を立て、少し引き上げて戻す。

カチリ、カチン――鍔が鳴り合うその音に、単なる作法以上の重みを感じた。


(これで、橘花に認めてもらえた。大人になれたんだ!)


嬉しさに涙がこみ上げるが、まだ安心するのは早かった。


「私が教えるのは、明日の朝までの基礎だけだ」


その言葉に顔を青ざめさせる暇もなく、ペーターは必死に食らいついた。


いきなり刀を振り回すと思っていたペーターにとって、扱い方や手入れの仕方から始まったのは少し拍子抜けだった。

しかし、橘花が静かな声で言った。


「侍の魂である刀を錆びさせる者は、その程度の者だ」


その言葉にペーターの心は自然と引き締まった。

毎日の手入れを欠かすまいと強く決意する。

橘花の言葉は何かの受け売りだと知っていても、彼にとっては重みがあった。


振り方、受け流し方、基本の基本を徹底的に叩き込まれ、ペーターは何度も汗を拭いながら、へとへとで膝をついた。

そんな時、橘花がぼそりと言った。


「そろそろ寝るわ」


テントに戻る背中を見送りながら、まだ教わり足りないと意地になったペーターは追いかけて中に入った。


寝ぼけた橘花に抱き込まれ、強制的に三十分の休憩にされてしまう。


眠気と闘いながらも、橘花は再び問いかけた。


「なぜ剣を習いたいんだ?」


隠す理由などないと、ペーターは村の大人たちの文句を口にした。


橘花は優しく、しかしどこか含蓄を込めて答える。


「考え方ひとつだ。お前が変われば、世界も変わるさ」


反発気味に「そんなこと、誰も教えてくれなかった」と言うと、


「まだお前は子供だからな。好きも嫌いもあっての世界だぞ」と、ゆっくりと頭を撫でられた。


そのまま意識がぼんやりと遠のき、ペーターはうとうとしてしまいそうになった。

慌てて自分で橘花を揺り起こすまで、そのまま眠りに落ちそうだったのだ。


翌朝、ようやく技のひとつを教わることができ、涙をこらえながらも、


「ありがとうございます、師匠!」


と言った途端、橘花は飲んでいた麦茶を盛大に吹き出した。


橘花は「師匠」と呼ばれるのをあまり好まないらしいが、ペーターにとっては彼が紛れもない剣の師匠だった。

だから、強く否定されることもないだろうと信じていた。


 † † † † † †


橘花が村を去ってからというもの、ペーターはいくつかの大人たちからからかわれた。


腰にぶら下げた刀を指して、「鈍らか?それなら、それで獲物でも獲ってこい」と。

かつてのペーターなら内心で暗い怒りを燃やしていた。

だが今は違った。


「心を静めろ。呼吸を乱すな。剣筋がぶれる。いつ刀を抜くことになるかわからないのに、自ら隙を作るな」


自分に言い聞かせながら、内なる怒りをやり過ごす。


すると、不思議なことに、大人たちの方が戸惑いを見せた。


そんな彼らの反応がおかしくて、かつては過剰に反応していた自分も思わず笑ってしまう。


ペーターはようやく意地を張るのをやめて、自然体でいようと決めたのだった。


 † † † † † †


今でも、大人たちからは言われることがある。

「せっかくの得物を使わないなんて」と。


確かに最初の頃は、ペーターもその誘惑に抗いながらうずうずしていた。

鋭く光る刃の切れ味を試してみたくて、何度も手が伸びかけた。


だが、橘花との約束があった。

この刀は、ただ自分を守るための懐刀――決して無闇に振るうものではないと。


ある日、手入れをしている姿を見た母がぽつりとつぶやいた。


「やっぱり父ちゃんの子だね」


涙をこらえながら、母は昔話をしてくれた。


父は村長のザザンと冒険者仲間だったこと。

母は射手、父は前衛の侍だったこと。

もう一人の仲間は、今は別の場所でギルドマスターを務めていること。


父は、母が身籠ったことで、種族の違いを乗り越え人間族の村に腰を据えることを決めた。

鬼人族である自分を村に置いてもらうために、刀を捨て薬師となったのだ。

母を不安にさせまいと、人間族の村に定住を決めたのだと。


ちょうどザザンも怪我を負い、手当てしてくれた村長の娘と良い仲になったこともあって、二人で定住を決めたという。


「でもね、あなたが産まれるときにあの人、薬師の仕事が入ってて出産に立ち会えなかったのよ。だから私が名前をつけて、そのあと帰ってきてから、『次の子の名前は絶対オレがつける!』って泣いて悔しがってたの。笑っちゃうよね」


「そんなことがあったんだな」


「懐刀を渡す歳になったら剣を教えたいと言っていたけど、侍の世界は厳しいから村で生きていくなら薬師の道がいいと思ったの」


「何で今まで、父ちゃんが侍だったって教えてくれなかったの?」


「父ちゃんがね、まだ教えられないって言ってたわ。憧れやかっこつけだけでその道に進もうとするあなたを見て、駄目だと判断したの。その判断は正しかったと私も思ってる」


「じゃあ、今は……」


「これは母ちゃんの判断だけど、あなた……その刀は絶対に血に染まらない気がするの。それに、【ミブロ】の橘花さんがあなたに託したのなら、大丈夫だって思った」


ペーターは一度、手元の懐刀に視線を落とした。

そして、再び母の顔を見つめ、瞳に強い決意を灯す。


「しないよ、絶対に。師匠と約束したんだ」


理不尽な世界に囲まれ、好きも嫌いも入り混じったこの世界が、少しずつ――受け入れられる世界に変わってきた気がした。


まだ心地よいとは言えないけれど、父がそうして生き抜こうとした世界で、自分も生きていける道が見えてきたのだ。


「これって、ちょっとだけ世界が変わったのかな、師匠」


朝焼けに染まる川辺で、ひとり小さな報告を終えたペーターは、大切な懐刀を携えて村へと水を汲みに戻っていく。


――それは、惨劇の宴が始まる数時間前のことだった。

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