小話:静まり返った倉庫の片隅にて
読んでも読まなくてもストーリーには影響ない小話です
入口のベルがカラン、と小さく鳴って──
橘花とラウトの姿が扉の向こうに消えていくと、店の中にはしばしの静寂が落ちた。
ミーシャは、ぱたんと扉が閉まる音を聞いたまま、しばらく放心していた。
ふさふさの耳が、まだぴくぴくと揺れている。
「……お父さん、あの人……いったい何者なの?」
静かに漏れた声には、尊敬と困惑と、ほんの少しの畏怖が入り混じっていた。
ラークは肩にかけた革前掛けを外し、古びた作業椅子にどっかりと腰を下ろす。
そして懐から煙草のような香草を一本取り出し、ふっと息を吐いた。
「さてな。鬼人族、ってことは間違いねぇ。けど──ただの、じゃねぇだろうな」
「うん……でも、別に偉そうな感じでもなかったし……何というか、その、すごく普通というか……」
「普通ってのはな、“何者でもない者”が身につけるものじゃねぇ。“何か”を持ってる奴が、それでも普通であろうとすると、ああいう風になるんだ」
「……?」
ミーシャにはまだ難しいらしい。ラークは娘の頭を優しくぽんと撫でた。
「ま、世の中にはな、黙って歩いてるだけで風がざわつく奴ってのがいるんだよ。本人に自覚がなくてもな。……俺が若ぇ頃に見た、“本物の英雄”ってのが、ちょうどああいう奴だった」
ミーシャはしばし目を見開いていたが、やがてそっと尻尾を抱えるように座り込んだ。
「……あの人、すごく“さびしそう”だった。顔は微笑んでいるのに、心の奥の方がちょっとだけ、泣いてるみたいな」
「獣人の勘は鋭いな。俺もそう思った」
「何があったのかな、あの人に」
「……それを知るには、あの人の隣に立って、同じ景色を見るしかねぇだろうな」
「え?」
「“商人”なら、客の顔と財布の中身だけじゃなく、その人の『歩いてきた道』を読む目が要る。お前も一人前になりたいなら、そういう目を持て」
「……うん」
ミーシャは静かに頷いた。
その表情に、さっきまでの動揺はない。
むしろ、どこか誇らしげで、きらきらと金色の瞳が輝いている。
彼女はもう一度、扉の方を見た。
「……また来ると思う?」
「さぁな。でも、来たら今度はちゃんと“もてなして”やれ。あれだけの素材を平然と持ち込むような奴、そうそういねぇ」
「うん、次は泣かない……多分!」
ぴん、と立てた耳が嬉しそうに揺れた。
ラークはくくっと笑いながら椅子を軋ませ、立ち上がった。
「さて……伝票つけ直さねぇとな。今日の商談は、店の歴史に残るぞ」
ーーーーー
店が落ち着いた夜、ラークは奥の帳場で書類をめくりながら、ふと今日の出来事を思い返していた。
(──橘花、か)
鬼人族の男。礼儀正しく、物腰も柔らかい。娘に何かしたわけでも、何かを企んでいる風でもなかった。それでもラークは、妙に胸に引っかかる感覚を覚えていた。
「タチの悪い連中なら、もっと分かりやすい異臭がする。……だが、あいつは違う。気になる、ってだけだな」
そう呟くと、昔の商人仲間にあてて何通かの簡易文書を送る準備を始めた。情報屋や古物商、かつて冒険者と関わりのあった者たちに向けて、名と特徴を伝えただけの軽い照会。あくまで個人的な興味の範疇だ。
そして数日も経たないうちに、ひとつの報せが戻ってきた。
それを読んだラークの指が止まり、重々しく息を吐く。
「……ミブロ。第一隊隊長……? 鬼人族の、橘花……?」
そこには、かつて古都ミヤコで活動していた治安ギルド【ミブロ】の名と、同ギルドに所属していた伝説的な隊長の情報が記されていた。名は橘花。鬼人族の男性。数多の事件を解決し、その名を知らぬ者はいなかったという。
だが──
「五年前の……厄災を境に、行方不明?」
ラークは息を呑んだ。あの厄災以後、ミブロの何人かが消息を絶ったという噂は耳にしていた。だが、まさか自分の店を訪れた旅人が、そのひとりかもしれないとは。
「……ミーシャには黙っておくか。あれは知りたがりだが、話していい類じゃねぇ」
そう独り言を呟くと、ラークは紙を火鉢に落とし、炎の中で燃やした。文字は灰となり、夜風に乗って消えていく。
「それにしても、生きていたとはな……。だが、あいつが何を見て、何を背負ってるかは……まだわからねぇ」
小さく唸ると、ラークは椅子にもたれ、火の消えかけた囲炉裏をぼんやりと見つめていた。
ーーーー
日が傾きはじめた午後の店内。入口のベルが、カランと軽やかな音を立てた。
「いらっしゃ──あっ、橘花さん!」
レジ横で帳簿をまとめていたミーシャが顔を上げると、橘花が扉の向こうに立っていた。今日はラウトは一緒ではない。ひとりで来たらしい。
「先日は世話になった。また頼みたいことがあってね」
「もちろん! えっと、お父さん呼んできますね!」
ぱたぱたと奥へ駆けていく娘の声を聞きながら、橘花はふぅと息を吐いた。少しして、奥の帳場からごつい体格の男が出てくる。熊のような体躯に、飾り気のない皮の前掛け。ラークだった。
「よぉ、また来てくれたか。……橘花、だったな」
「そうだ。先日は娘さんに迷惑をかけたようで、すまなかった」
「なんの。あれは泣いた方が悪い。あいつもまだまだだ」
ラークは豪快に笑ってから、表情を引き締める。
「で、今日は?」
「前に換金を断られた希少通貨じゃなくて、普通の素材や剥ぎ取り品の買取をお願いしたい。多少は価値の分かるものも混じってると思う」
「そいつはありがてぇ。こっちの仕事に回せる品が多い方が助かるからな。見せてみな」
カウンターに荷物を広げると、橘花は持参した袋からモンスター素材を丁寧に並べていく。うち一部には、珍しい部位や、保存状態が極めて良好なものも混じっていた。
「……なるほどな。こりゃ確かに一級品だ。どうやってこんな綺麗に持って帰れた?」
「崩れる前に冷却処理して密封した。それだけのことだよ」
「“それだけのこと”を普通のやつはできねぇよ」
ラークは軽く鼻を鳴らした。
目の前の男の身のこなし、物腰、そして扱う品の精度。どれをとっても只者ではない――
だが、そのことを口にするつもりはなかった。
(……五年前のあの日から消息を絶っていた伝説の隊長、ねぇ)
問いただして答えが返るような相手ではない。それに、どこか疲れたようなその目に、詮索を向けるのは礼を欠く気がした。
「……ん。じゃあ、ざっと見積もり出すぜ。ミーシャ!」
「はーい!」
勢いよく返事をしたミーシャが店の奥から出てきて、早速計量と記録を始める。手際の良さは、ここ数日でぐっと成長していた。
「……娘もやっと商売の面白さがわかってきたらしい。お前のおかげかもしれん」
「そうか? 私はただ来ただけだが……まあ、ならよかった」
橘花は少しだけ表情を緩めた。
数分後、査定が終わるとミーシャが紙片を持って戻ってくる。
「お待たせしました! この量と質で、この価格になりますっ!」
橘花はその金額に驚いた顔もせず、静かに頷くと一言。
「妥当だ。頼む」
「まいどあり!」
会計が終わると、橘花は再び荷物を整え、軽く一礼して店を後にする。
その背中を見送るラークの目には、どこか遠い過去を思い出すような色が浮かんでいた。
「……お前さん、今度は何を背負ってるんだ?」
誰にも聞こえない声が、店の中に静かに沈んだ。




