第36話
猫特有の柔らかな毛並みと、耳の微妙な角度。
その愛らしいフォルムから熱心に観察されているとは夢にも思わないだろうが、ミーシャと呼ばれた猫獣人は、橘花を見た瞬間――瞳孔がぱっと開き、まるで本能が先に反応したようだった。
驚きの色を隠そうと、尻尾の先がわずかに跳ねる。それを自覚したのか、彼女は慌てて背筋を伸ばし、声を整える。
「ようこそ、いらっしゃいませ。当店に何をお求めでしょうか?」
橘花は、その一連の動作を面白そうに眺めつつ、落ち着いた声で答える。
「モンスターから取れた物の買い取りと換金ができればお願いしたい。頼めるか?」
「はい、可能です。ただし、査定には品物によってお時間をいただきます。それでもよろしければ……」
「かまわない。」
ラウトに少し離れて待つよう合図し、橘花は次々と品を机に置く。
ミーシャは淡々と作業をこなすが、その金色の瞳がどこか落ち着かず、何度も橘花の角や背丈を無意識に確認しているように見えた。
――警戒か、それとも好奇心か。理由は分からないが、明らかに普通の客への態度ではない。
しかし、事が急変したのは――橘花が懐から、五百円玉に似た金色の硬貨を机に置いたときだった。
「これ、換金お願いできるか」
何気ない声でそう言った瞬間、ミーシャの耳がぴんと立ち、瞳が一瞬だけ細くなる。
「……換金?」
声がわずかに硬くなる。
「ああ、換金だが」
「査定、ではなく?」
問い返すその調子は、明らかにさっきまでの穏やかさと違っていた。
「いや、換金だが」
会話の温度が下がっていくのを、橘花も感じ取る。
――何かまずかったか。そういえば、門のオッサン兵士もこれをじっと見てたな……。
まさか敵国の通貨とか、ややこしい話じゃないだろうな。
心臓がわずかに速くなる。
やや間を置いて、ミーシャが青ざめた顔で口を開いた。
「も、申し訳ありません。これに関しての換金となりますと、父の……いえ、オーナーとの話し合いが必要になりますので、私の一存ではお答えしかねます」
横からラウトが軽く笑い飛ばす。
「なんでだよ、ミーシャ。金貨一枚くらい換金できるだろ」
その瞬間、ミーシャの尻尾がぶわっと膨らみ、耳が寝る。
「馬鹿言わないで! この金貨――トリク金貨よ! この家ごと売ったって換金できないわよっ!」
ラウトに噛みつくように叫ぶ声が、店の中で鋭く反響する。
橘花は瞬きをしながら、その意味をゆっくり理解していく。
――つまり、これはとんでもなく貴重で、換金なんてもってのほか……そういうことか。
価値を知りたくて出しただけなのに、大ごとになってしまったらしい。
「あー、お嬢さん。普通の金貨と同じ通貨価値でいいから換金してくれ。手持ちがそれしかないんだ」
橘花が軽く言ったつもりだったが、その瞬間、ミーシャの耳がぴくりと動き、目が釘付けになる。
「はぁ!? あなた馬鹿ですかっ!」
机を叩きそうな勢いで身を乗り出す。
「五年前の厄災で鉄の侵略者に根こそぎ奪われて、現存数が数枚しかないんですよ!? しかも製造方法も失われた幻の金貨! どこで捌けって言うんですかっ!」
「じゃ、(百円玉っぽい)この銀貨は?」
何気なくもう一枚取り出す橘花。
「トッ、トリク銀貨までぇぇえええっ!?」
ミーシャの声は絶叫に変わった。耳は伏せ、尻尾は膨らみ、顔から血の気が引いていく。
――駄目か。
金貨も貴重らしいが、銀貨の方がさらに希少で、価値的には銀が上という逆転現象。
ラウトに他の通貨を見せてみろと言われ、素直に出した結果――ミーシャは目を見開いたまま椅子に崩れ落ちた。
が、すぐに跳ね起きる。さすが商人、職務放棄はしないらしい。
しかし、その視線は完全に「目玉が飛び出るどころか転がっていった」状態だ。
橘花としては、この世界で使える通貨さえあれば十分だった。
くれてやっても構わないくらいだ。だって、まだストックは山ほどあるし。
買取分で小金は手に入ったが、使えないものを抱えても仕方ない。
「三ヶ月ほど安宿で食事付き生活ができる額」でいい、と見積もりを頼んだところ――
「ラウト、この人おかしい! 価値観どうなってるの!? なに、どっかの王族!?」
「ミーシャ、失礼だろう!」
「すまん、世間から離れていたので疎いんだ」
「持ってきたモンスターの皮だって、この辺りじゃ獲れない一級品! しかも状態が良すぎ!」
――そーなのかー。へー。
泣き出したミーシャを、橘花は遠い目で見つめた。
どうやら「普通の生活」を始められるのは、まだ先らしい。
「なんだ騒がしいな」
奥から低く響く声。
「お父さんっ!」
ミーシャが泣きながら飛びついたのは、熊のような大男だった。
突然の展開にポカンとしていると、大男の視線がミーシャから橘花に移る。
「おい、鬼人族の。俺の娘に何しやがった? 場合によっちゃ、この街から叩き出すぞ」
「は?」
「ちょっとラークさん待って! ミーシャ説明しろって! 橘花さんは何もしてない、むしろ逆! お客さんだから!」
ラウトが割って入ってくれたおかげで、冒険者ギルドに行く前に追放フラグを立てずに済んだ。
ミーシャが事情を説明すると、父親――ラークは納得の頷きを見せた。
「そういうわけで、現在の金貨や銀貨と同じ価値でいいから換金してほしいと言ったら泣かれてしまって」
「娘がすまなかったな。詫びに換金してやりたいが、その金貨や銀貨は今や国も買える代物だ。うちじゃ扱えん」
「じゃあ、現在の価値だけでも教えてくれないか。……どうも疎くなってしまってな」
「欲がないにもほどがあるな。いや、鬼人族だからか」
「他は知らないが、私は美味い酒と飯、それに平穏があればそれでいい」
「高潔ですね」
ラウトの言葉に、橘花は(普通だろ)と思ったが、黙っておいた。
ラークに教わった通貨単位は単純だった。
十進法で、十枚の銅貨が一枚の銀貨、十枚の銀貨が一枚の金貨――ここまでが「ウル」。
さらに「ギル」という一円玉のような単位もあり、市場では主にこれが使われているらしい。
「へぇ、トリクとあまり変わらないんだな」
「そりゃそうだ。ただし製造は雑で、純度も低いがな。この五年でようやく浸透した通貨だ」
その後の戦利品査定でも、王に献上するレベルの品が多く、買取拒否が続出。
ラウトには「さすが鬼人族!」と感心されたが、橘花としては雑魚から回収した物ばかりで、むしろ申し訳なくなっていた。




