第33話
家屋から出ると、日差しが眩しかった。
雲ひとつない青空を見上げて、橘花は思わず溜息をつく。
村人たちに生石灰の使い方を教え終えたあと、発病者のために『初級ポーション』の在庫を作るなど細かい作業も残っているため、早朝に村を発つ予定はなかった。
だが、もうすぐ昼になろうという今になっても、隠れ里の外に出られずにいる。
理由は――。
「ねぇねぇ、きっか。もうちょっとお家にいて?」
蜂蜜色の髪と緑の瞳の少女が橘花の袴にしがみつく。
あの洞窟で頭を撫でてくれとせがんだペーターの妹、律だ。
名前が漢字なのは、父親のトーマが名付けたらしい。
橘花がザザンとともに病人の家を回り、診察の名目で『鑑定』を行った結果、まだ体力は戻りきっていないものの、自力で歩き食欲もあるためひとまず安心と判断した。
最後に訪れたのがペーターの家で、そこでも律が「にがいお薬のむの?」と不安そうに聞いてきたため、「いっぱい痛いのを我慢したから苦くないよ」と苺味の『ドロップ飴』を一粒渡した。
劣悪な環境のなか、ようやく元気を取り戻しつつある子供の不安を和らげるのは、人として当たり前のことだろう。
だがそれが、予想外の結果を招いた。
飴の味が気に入ったのか、橘花が鬼人族であることに親近感を覚えたのか、律はすぐに懐いてしまった。
ザザンは村の後片付けがあると告げて先に去り、助けを求める前に逃げられてしまった。
家から出ようとすると、律は母親の許可を得て外に出てきていた。
「やー! きっかとごはん食べたいっ!」
「律、師匠は忙しいんだから、あっちに行ってろって! ね、師匠!」
律を諫めるはずが、ペーターも橘花の横にぴったりと寄り添い、なかなか離れない。
飴をあげたのは失敗だったか。ペーターの短刀だけでなく、律までも飴で橘花に懐かせてしまった。
結果、ペーターは「師匠」と呼びつつ離れず、律は袴を掴んで放さない。
そんな二人にまとわりつかれ、村の子供たちも橘花への警戒心を失い、次々と群がってきた。
「鬼人族って強いの?」
「角、触ってみたい!」
「刀、見せて!」
「私も飴ちょうだい!」
「りあにも、ちょーらい!」
ようやく日陰の木の根元にたどり着くと、子供たちが群がって動けなくなった。
律が飴をもらったことを自慢げに話したせいで、まだ言葉が不自由な小さな子まで押し寄せてくる。
仕方なく腰を下ろし、『ドロップ飴』の缶を差し出すと、昔懐かしい四角い缶を振る音に子供たちは歓声をあげた。
刀だけは触らせなかったが、角なら許したらしく、遠慮なく握られ引っ張られてしまう。
橘花は「もう少し優しくしてね」と苦笑いした。
さらに、ペーターの腰に差している短刀を見つけた子供たち、特に男の子が「僕にも!」と群がり、断るのに苦労した。
そんなこんなで親たちに呼ばれ、子供たちは散っていった。
昼食の時間になったのだ。
ペーターも大人たちに組み込まれて作業の手伝いに呼ばれ、午前中のサボりを取り返すかのように動いている。
ようやく自由になった橘花はぐったりと座り込み、胡坐をかいた。
だが、その足の上に律が当然のようにどっかりと座り込んでいるのは……まさかの展開だった。
「律、母親のところに帰れ。もうごはんの時間だ」
「いや、きっかとごはん食べる!」
「私は一人で食べるから、お前は早く食べておいで」
「いやー! りつと一緒に、きっかもごはん食べよう?」
橘花の羽織をしっかり掴んで離さない律は、橘花が離れたら行ってしまうのをよくわかっているようだった。
「よし、律。いいものやるよ」
「なに?」
ぐずる律に差し出したのは、『流星のペンダント』という装備品だった。
瑠璃色の玉の中に、いくつもの流れ星に見立てた銀の筋と気泡が散りばめられた美しいトンボ玉のペンダントだ。
これは、ある期間限定クエストの道具屋で一つだけ購入できる希少なアイテムで、コンセプトは「星に願いを」。
クエストクリアには必須ではないものの、購入しておくと様々な恩恵があるため、当時はとても人気が高かった。
説明には「装備者の願いを叶えるペンダント」とあるが、実際にはレベルアップや職業追加など、一つだけ願い事として選べる効果がついている。
また装備品としての運ステータスの上昇が桁違いで、クエスト期間終了後に手に入れられなかった者は、リアルマネーを払ってでも欲しがるほどのレアアイテムだった。
このクエストは期間中何度でも受けられたが、ペンダントは道具屋から一人一個しか購入できず、売り切れると入手不可になる仕組みだ。
だが過去にシステムのバグで数時間だけ購入し放題になったことがあり、橘花はその間に大量購入。
装備アクセサリー欄をすべてペンダントで埋めて、運ステータスだけ異様に跳ね上がった状態でソロ活動を楽しんだ。
クリティカルヒットが連発し、レアアイテムも頻繁に手に入るなど美味しい思いをしたものの、願い事はアカウントごとに一つだけという制限があって、夢は脆くも砕け散った苦い思い出でもある。
「願い事が叶うペンダントだ。律が一生懸命願ったら、きっと叶えてくれるぞ」
「おねがいごとが叶うの?」
純粋な瞳で見つめる律の輝きに、橘花の良心はズタズタにされそうになる。
だが、ここが踏ん張りどころだと心を鬼にして頷く。
「私は用事があって行かなきゃならないんだ。これを代わりにやる。律はいい子だから、わかるよな?」
「……きっか、帰ってこないの?」
「うん……旅の途中だから、すぐには帰れないかな。自分の家にも帰りたいし……ごめんな、律」
もう戻らないとは言えず、曖昧に誤魔化すのは大人の悪い癖だ。
事情が事情だけに、橘花は心の中でそっと謝った。
しばらくして律も理解したようで、離れていった。
村を発つ時には全員で見送りをしてくれた。
感謝の言葉や拝むような仕草に混じり、子供たち全員が森の奥へ消えていく橘花をずっと手を振って見送ってくれたのが、少しだけ嬉しかった。




