第31話
薬品の小瓶を手の中で転がしながら、橘花は川辺でひと息ついていた。
思考は整理された。作るべき薬もできた。あとは、誰に試すか。
(……ペーター、まだあの辺にいるな)
岩陰の草むら。そのあたりから感じる微妙な違和感――風でない揺れ、沈黙の気配。
そっと立ち上がると、橘花はわざと遠回りしながらその方向へと足を運んだ。
「……ペーター。そこにいるんだろ」
がさ、と草が揺れ、気まずそうな顔をした少年が顔を覗かせる。
「……気づいてたのかよ。なんで黙ってた」
「ちゃんと出てきたから、よしってことにしようか」
苦笑しながらそう言う橘花に、ペーターは視線を逸らした。
「ったく……なんだよ、あんた、用があるなら最初から呼べよな」
「うん。今からその“用”を頼みに来たんだ」
橘花はポケットから小瓶を取り出して、ペーターの前に差し出す。
「……飲んでみてほしい。この薬、君に効くかもしれない」
「試すって……それ、まさかオレに毒見させる気かよ?」
「毒だったら、飲ませないよ。これは“初級ポーション”だけど、普通のと少し違うんだ。君に出ていた症状――蝶や虫が寄ってくる、それに合う可能性がある」
「……信用していいのか?」
ペーターの視線が鋭くなる。
しかしそれは恐怖ではなく、相手の真意を見極めるときの目だ。子供らしからぬ警戒心。
橘花はその視線を正面から受け止め、静かにうなずいた。
「もちろん。だけど、無理強いはしないよ。判断は君に任せる」
数秒の沈黙。
ペーターは小瓶を取ると、ひとつため息をつき、鼻を鳴らした。
「……チッ、変な味だったら、覚えてろよ」
「うん、そのときは全力で謝るよ」
「別に謝れとか言ってねぇよ。あんたが思ってるよりガキじゃねーし」
ためらいながらも、ペーターは小瓶の栓を外し、中身を一気にあおった。
ゴクリ、という喉の動き。すぐに顔をしかめる。
「……うげ、なんか草っぽい味。けど……あれ?」
ぶつぶつ言いながらも、彼は口の中を拭い、落ち着こうとしていた。
そのとき――
周囲の空気が、ふと緩んだ。
ペーターの肩に止まっていた薄紅の蝶が、ふわりと羽を動かし、そっと離れた。
それに続くように、背中に留まっていた白い紋が美しい蝶も、静かに羽ばたき空へ戻っていく。
何かに惹かれて集まっていた群れが、合図もなく一斉に離れていくその様は、まるで一瞬の夢がほどけるようだった。
舞う羽音だけが残り、やがてそれも風に溶けた。
ペーターはぼんやりとそれを見送っていた。
彼のまわりから、虫の気配は消えていた。
橘花は、その様子を黙って見つめながら、小さく息を吐く。
(……効果あり、だな)
手応えを確かめるように、静かに拳を握った。
† † † † † †
腹は決まった。
橘花は即座にザザンのもとへ戻り、要点だけを告げた。
「病名は『蜜病』。飛沫と血で感染する。初期に甘い匂い、次に倦怠、末期は内臓に来る。処置は早ければ早いほどいい。村人全員に知らせるかどうかは任せる」
一瞬目を見開いたザザンだったが、すぐに頷いた。
橘花は続ける。
「これから処置に向かう。手伝いたい者がいたら、これを装備して洞窟前に来るように」
ストレージから、イベント報酬で手に入れた『お医者さんキット』を出す。中身は、白いゴーグルとマスク、手袋のセット。全員分はなかったが、最低限の防護にはなるはずだ。
やがて病人全員分のポーション調合を終え、洞窟前に向かうと、すでに数人の男女が集まっていた。
全員がきちんと装備を着けている。ザザンが声をかけてくれたのだろう。
「これが薬だ。進行状況で効果は変わるが――飲ませてすぐに治らないからって、何本も与えるな! 一人一本厳守。いいな?」
きびしい声で釘を刺す。
「万が一、効果が見られない場合は私が行く。暴れる者がいれば、無理に抑えるな。安全な距離を取れ」
はい! と元気な返事が返る。
橘花はその様子を見て、ほんの少し安心した。
あとは、薬を受け取った病人たちが、素直に飲んでくれるかどうかだ。
……その心配は杞憂に終わった。
洞窟に入り、薬を差し出すと、男たちは率先して瓶を掴み、躊躇なく飲んだ。
中にはもう一本くれと橘花に詰め寄った者もいたが、「ひとり一本だ」とキッパリ言って押し返す。
女子供は橘花に萎縮しているのか、対応は女性陣に任せてある。
それでも、薬を拒否する者はいなかった。
一時間ほど経って、志願者たちに経過観察を頼むと、驚くべき結果が返ってきた。
苦しげに寝込んでいた者たちが、次々と立ち上がり、歩けるようになっていたのだ。
橘花は外にいた男にザザンを呼ぶよう頼む。
すぐに駆けつけたザザンは、目の前の光景を見て、目を見開いた。
伏せっていた村人たちが、短時間で顔色を取り戻し、言葉を交わし、笑っている。
橘花は黙って腕を組んだ。
まだ全快とはいかないが――命を落とすほどの状態では、もうない。
やれやれ、と息を吐く。
これが、初級ポーションの力だ。
だが、力そのものよりも。
それを「今」知っていることのほうが、どれほど価値があるか。
しらす御飯さんに感謝しろよな、と心の中で呟きながら、橘花は洞窟を見回った。




