第30話
ザザンから聞いた村人たちの症状、そしてペーターの初期症状。
それに該当する病気は――何か、過去にあったはずだ。
「……記録、記録……」
橘花は、個人クエストやイベント履歴のログを開く。
記憶の奥底に、ひっかかる何かがある。けれどもう何年も前の話で、検索ワードも曖昧だ。
だから一番下までスクロールし、ひとつずつ順に記録を確認していく。
スクロールバーがようやく止まり、最古のクエスト群にたどり着いたそのとき――目に留まった、忌まわしい名前。
「あった、『天使の嘘』……これだ!」
そのクエストは、PAO黎明期の黒歴史とも呼ばれる難関イベント。
タイトルだけ見れば、淡い黄色と蝶のエフェクトが舞い、鱗粉のような光が画面を飾る――まるで癒し系クエストのような演出。
だが実際は、当時のプレイヤーにトラウマを刻んだ、悪名高き災厄クエストの一つだった。
内容は、ある村へ物資を届けるシンプルなものから始まる。
しかし、その村の入り口でプレイヤーを出迎えるのは、頭や肩に蝶を止まらせた幼い少女。
「おかあさんたちが寝込んでるの。薬草をちょうだい」
そう言われ、アイテムを渡した瞬間から、タイムリミットが始まっていた。
物資を運ぶたび、少女が次の配達先を指示する。
再び訪れるたびにハーブをねだられ、淡々と薬草を渡す日々が続く。
三度目の訪問でようやく「村の人は?」という選択肢が出現。少女はにっこり微笑んで、「だいぶよくなってるの」と答える――毎回同じ返答。村人は一向に姿を見せず、配達先の家も毎回バラバラ。
だがある日、少女はふらつきながら村の外へ出てきて、目の前で大量に吐血しながら倒れる。
「薬草……を、ちょうだい……」
笑顔のまま、ゆっくりと崩れ落ちる。
――ぎゃあっ、ホラーかよ! と、当時の橘花も叫びそうになった記憶がよみがえる。
村人たちは全員、原因不明の病で死亡。
少女は死んだ両親の看病を続けた末、自身も末期症状で死亡。
病名判定失敗、村の救助失敗。クエスト条件未達成のため、プレイヤーも感染して死亡――再挑戦不可という絶望的なエンディング。
当然、苦情が殺到した。
「そんなのホラーゲームでやれ!」という怒りは、今でもプレイヤーフォーラムの黒歴史タグで語られている。
橘花自身も、その時のトラウマでこの名前を思い出したくなかった。
でも、今は逃げている場合じゃない。
ちなみに、『地球が静止した日』アップデート以降、このクエストは大幅に改善された。
再チャレンジして橘花もクリアはしたが、内容や病名がまるごと差し替えられており、元の記憶からはすっかり抜け落ちていた。
ただ――改善前にこのクエストをクリアした伝説のプレイヤーが、身近にいた。
しらす御飯。
ミブロの副長であり、怖いと噂の折檻係。だが、橘花にとっては「怖い昔話」を語る人でもある。
実はその昔話の中に、このクエストの真実が含まれていたのだ。
正しい手順を踏み、《初級ポーション》を村人たちに配れば、病気の進行を食い止めることができる。
死者も出さず、少女も助かる、唯一のハッピーエンディングルート。
そして、そのクエストで登場した病の名前――それこそが『蜜病』。
初期症状では、体から甘い香気が発せられ、蝶や虫が集まってくる。
中期になると、身体反応が鈍くなり、神経系が侵される。
聴覚・視覚・味覚などの感覚は曖昧になり、関節の痛みや微熱を伴う。
末期には、内臓が菌の温床となり、最終的に吐血。
倒れた場所からは胞子が発生し、新たな感染源となる。
感染経路は、飛沫と血液。
初期~中期で治療できれば助かるが、発見が遅れれば、ほぼ確実に死に至る。
当時は病名すら伏せられていたため、失敗者たちはそのクエストを『ポイズンブラッド』と呼んでいたが、ある意味で的を射ていたのだ。
(……まさか、こんな形で役立つとはな)
橘花は、しらす御飯に折檻されながら延々と聞かされた“怖い昔話”を思い出し、苦笑する。
(名前も内容もトラウマ級だけど――情報は確か。これを信じるしかない)
(よし。まずは『初級ポーション』。これで改善が見られるなら万々歳。ダメなら次に『中級』を調合する。それでもダメなら――とことん付き合ってやる!)
そう決意すると、橘花はスキル《調合》を発動。
いつも通り、試験管を振って薬品を混ぜるアバターが表示される。
初期時代から変わらぬ、この演出。今さら意味があるとは思えないけど、スキルの仕様には逆らえない。
橘花が作成したのは、PCが調合可能な回復薬――『初級ポーション』。
HPの回復に加え、軽度な毒状態の治癒効果があるが、それ以上の効果は期待できない。
だが、改善前の『天使の嘘』における“正解”は、この初級ポーションだった。
回復アイテムというより、治療の“鍵”だったのだ。
(……病名も症状も一致してる。頼む、効いてくれ……!)
橘花は祈るようにポーションを見つめた。
希望をかけるなら、今しかない。




