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第3話

五十年前、VR――ヴァーチャルリアリティが誕生した。

当初は名ばかりが広まり、その用途は軍事利用に限られていた。

巨大施設に収められた数兆円規模の精密機械。SF映画さながらの専用スーツを身にまとい、無数のコードを接続。脳から筋肉への信号を読み取り、現実の肉体を動かさずに仮想空間を操作する。

街中や砂漠を三百六十度カメラで撮影した映像に、粗いポリゴンで組まれた仮想の身体を重ねる――滑らかとは程遠い、ぎこちない世界だった。


民間への解禁は二十年前。

最初に導入したのは企業の社内研修用システムだ。

「意識を機械に取り込むなど危険だ」という懸念もあったが、年を追うごとに装置は小型化し、技術も洗練されていった。

初期の個人向けダイブギアは、頭部全体を覆う有線ヘルメット型。

発売から三年後には、耳と目元を覆うだけの無線式小型モデルへと進化。大量生産による価格低下で、庶民も手を伸ばせる存在となり、瞬く間に社会現象を巻き起こした。


かつてVRが夢物語だった時代、人々は“ログアウト不可”や“ゲーム内での死が現実の死”といった小説に熱狂した。

そんな物語を子供の頃に貪るように読んだ世代が、大人になってその世界を体験できる時代が来たのだ。若者も年配者も、誰もが一度は夢見た「自分の足でゲーム世界を歩く」体験を求めた。


だが、長年の課題があった。

軍事利用の時代から続く「動きのリンク」はできても、“仮想現実”としての没入感は決定的に欠けていた。

最大の壁――それは痛覚だった。


高所からの落下や風の感触は、視覚情報で脳を“勘違い”させれば再現できる。

だが衝撃に痛みが伴わなければ、そこは揺れる映像の中を漂うだけの虚構に過ぎない。

アクション映画の主人公の視点を借りただけの、物足りない世界だった。


突破口は、意外な場所から現れる。

日本の医療研究者が、義手・義足用に開発したシステムプログラム――失われた四肢に感覚を与える技術である。

熱さや冷たさ、衝撃の硬軟、材質の違い。鉄か木材か水か、生物か無機物か。数兆を超える信号パターンで“現実の触覚”を人工肢に伝える技術は、そのまま仮想世界の身体にも応用できた。


ゲーム用に調整された痛覚は、最大でも“針で軽く刺す程度”に制限。布が肌をかすめる感触すら再現可能になった。

さらにプログラマーたちは、ダメージ判定の誤伝達を防ぐプロテクトを組み込み、十年前、ついに「現実と同等の感覚を持つ仮想世界」が誕生した。


βテストは日本国内300名限定。それでも世界中から応募が殺到。

大手ゲーム会社が手掛けた初のVRMMOは、今なおシリーズ化される人気作となった。

そして、その波に乗って登場したのが――

Pandora Ark Online、通称『PAO』だ。


美麗なグラフィックと高い自由度。

種族や職業に縛りはなく、剣も魔法も呪術も混在するごちゃ混ぜの世界。

中世ヨーロッパ風の城下町、日本の戦国期を模した古都……多様な国々が地図上に点在し、“ゲート”を通らねば隣国へは行けない。

ギルド参加で通行証を得れば遠征も可能だが、無所属のまま中立地帯で一生を送ることもできる。


最大の進化は味覚プログラム。

甘味・苦味・塩味・辛味だけだったものが、今では食材固有の風味まで再現可能に。

プレイヤーは決まったストーリーに縛られず、童話のような世界観の中で、思い思いの旅を送れる。


「パンドラと呼ばれる女神の創りし船世界の旅人となれ。

王宮勤めも、騎士としての栄達も、商人としての繁栄も、冒険者としての迷宮攻略も、芝生の上で昼寝するだけの人生も――すべては“あなた”次第。」


その言葉に惹かれた女性がいる。

名前は橘花(きっか)。サービス開始当初から遊び続けているベテランで、上位ランカーの実力者だ。

ゲームの中では男性キャラクターを使っている。


橘花が初めてダイブギアを被り、『PAO』の世界に足を踏み入れたあの日のことは、今でも鮮明に覚えている。

目の前に広がったのは、想像を遥かに超えた現実そのものの景色だった。

石畳が風にさらわれ、遠くからは市場の喧騒が聞こえ、柔らかな日差しが肌を撫でる感覚まで伝わった。

手を伸ばせば、本当にそこに存在するかのような感触を伴って、葉っぱが指先に触れた。


しかし、戸惑いもあった。

痛みを感じるという新たな感覚は、現実の身体を傷つけられるような怖さと背中合わせだった。

「これが……本物の仮想現実か」

橘花は、ぎこちなくも嬉々として、まるで生まれ変わったかのようにその世界に溶け込んでいった。


以来、彼女にとって『PAO』は単なるゲームの枠を超えた、もう一つの“現実”となった。

そこでは性別や年齢、過去の束縛もなく、自由に自分を表現できる。

初プレイの驚きと戸惑いを胸に、今もなお、彼女はその世界で己の物語を紡いでいるのだった。

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