第27話
(……この病気、どこかのクエストで聞いたような……)
記憶の奥で引っかかる感覚に眉をひそめながら、橘花は五右衛門風呂から上がった。
ペーターも最初は頑なに拒んでいたが、「我慢したら唐揚げ串三本な」の一言で観念。子供は素直でいい。
頭を洗ってやるついでに、妹の額にあった黒曜石のような飾り石のことを思い出す。まさか、と思ってペーターの前髪を掻き上げると――額に一本の角が隠れていた。
「……種族は?」
問いかけた途端、ペーターは大暴れ。「ハーフだよ! 悪いかよっ!」と泣きそうな顔。
唐揚げ串を一本渡せば、恨めしげに睨みつつも、もぐもぐと咀嚼する。やっぱり子供だ。
母は人間族だと聞いている。ならば父は――角の形からして鬼人族か。
「親父さん、鬼人族だな?」
沈黙。俯く肩が、かすかに震えた。
「……鬼人族って、戦闘力高いんだろ?」
「ああ。最強とは言わんが、強いさ」
「ふーん」
何かを計るような返事。その後、ぽつりと――
「おれ、薬師なんかやらねぇ。あんたみたいに刀を振るえる戦士になる」
「薬師の方が村には――」
「嫌だ! 父ちゃんみたいに角を折られて黙って従うなんて御免だ!」
声を荒らげ、自分の言葉に気付いて口を噤むペーター。
だが、橘花にはもう十分だった。角を黙って折られる――そんなことは鬼人族にとって致命だ。ゲーム内でも、敗北した鬼人族の角を折る演出があったが、あくまで演出だ。現実で行われたとなれば話は別だ。
「……何があった?」
その声音に押され、ペーターは渋々口を開く。語られたのは、耳障りなほど胸糞の悪い話だった。
――五年前、天変地異と共に現れた鉄の侵略者。見たこともない鉄の箱、降り注ぐ鉄の雨。
村で唯一の鬼人族だった父・トーマは、「角を差し出せば命は助ける」という条件で村人に差し出された。
殺されはせず奴隷として連れ去られたが、重労働に耐えられず死ぬ者が続出。
やがて【ミブロ】が要塞を急襲し、混乱の中で脱出が始まる。トーマは追撃を食い止めるため狭い通路で踏みとどまり、仲間を森へ逃がした。
その後、要塞は陥落したが……トーマは二度と帰らなかった。
「最初から戦えばよかったんだ。父ちゃんだって……」
ペーターの小さな拳が震えている。
何と答えればいいのか分からなかった。戦場も紛争も知らない橘花に、当時の村人の選択を理解することなどできない。
否定は簡単だ。肯定は……できなかった。
「……守り方ってのはな、色々あるんだ」
「あんなの守り方じゃねぇ!」
吐き捨てるように言い残し、唐揚げ串を握ったままペーターは走り去った。
橘花はその背中に、「湯冷めするなよー!」としか声をかけられなかった。
――篝火の音、川のせせらぎ、虫の声。
胸の奥に沈殿するのは、理屈じゃない苛立ちと、拭えない疑問。
「トーマさん……あんたは、何を思って角を差し出したんだ?」
村を守るためか、家族を守るためか。それとも――。
人間の弱さと醜さを、これでもかと突きつけられる。
あの少女は何も言わなかった。助けを求めることも、恨み言を吐くこともなく、ただ、橘花の手に小さな頭を預けた。
その重みが、やけに冷たく、そして痛い。
「……義を見て成さざるは、勇なきなり……だったか」
パンッ、と頬を叩く。
強すぎた一撃が、皮膚の奥で鈍い痺れを残す。けれど、それでいい。痛みが、迷いを追い払ってくれる。
胸の奥に渦巻く恐怖が、熱に変わっていく。
やらずに後悔するくらいなら、やって死ね――その言葉が、自分の中で刃のように研ぎ澄まされていく。
仲間はいない。弟たちの茶化す声もない。
現実の自分がどうなっているかも分からない。
それでも――
今、この瞬間を、“橘花”として生きる。
逃げるためでも、自己満足でもない。ただ、守るために。
川辺の小石を踏みしめ、一歩、二歩と水際へ進む。
流れの音が背を押し、冷たい風が頬を撫でた。
その唇が、水音に紛れるように小さく動く。
「……けど、死ぬのは嫌だ。ちゃんと帰って、笑って終わる」




