第26話
「父ちゃんが薬師だったんだよ。あれ、父ちゃんの採ってきた最後の株だったんだ」
ぽつりと零れた少年の言葉は、あまりに静かで重い。
医者に相当する人間がいたから煎じ方を知っていたのかと納得すると同時に、その薬師がもうここにはいないと悟る。話しぶりからして、ほぼ間違いなく。
「……おれは村なんて救ってもらいたくない。早めに治せないって言って、出てってくれよ」
「え?」
母と妹のために薬草泥棒を追っていた少年の口から出た言葉とは思えず、橘花は固まった。
少年は腰を上げ、外へ向かって歩き出す。その背を慌てて呼び止める。
「待て、聞きたいことがある……。ここにいる者達から『トーマ』と呼ばれるんだが、誰のことだ?」
口にした瞬間、後悔が押し寄せる。
少年はわずかに立ち止まり、重い沈黙だけを背中越しに置き去りにして再び歩き出した。その無言が、上司の説教よりもよほど胸に刺さる。
追いかける気力は萎え、悪臭の中でひとり取り残される。
だが不思議なことに、「できないなら出て行け」という言葉は、橘花にとって妙に救いでもあった。
(医者でもないのに、これ以上は無理だ。逃げ道ができた)
そんな言い訳を心の中で積み上げる。
(そうだよ。こういう場合は医療機関とか専門の人が動けばいい。私は私で遭難者みたいなもんだし、咎められる筋合いはない)
自分にそう言い聞かせた、その時だった。
「ひっ!?」
呻き声しかないはずの洞窟で、不意に誰かが橘花の手に触れた。
視線を落とすと、寝ていた少女が右手を握っていた。
「……おと、ちゃん?」
かすれた声。
少女はゆっくり顔を上げ、額に黒い石のようなものが二つ見えた。
「おとうちゃん……あのね、りつね、がまんしたよ。痛いのがまんできたの。……いいこ、いいこして?」
父と他人の区別がつかないほど視覚が侵されているのだろう。甘えるように橘花の手に頭を寄せる。払いのけることなどできず、蜂蜜色の髪をそっと撫でた。
「もっと痛いのがまんすれば、おとうちゃんに、また会える、かなぁ……?」
そう呟くと、体を丸めて眠りに落ちた。かすかな寝息が聞こえる。
橘花は静かに立ち上がり、洞窟を後にした。
外はもう日が落ちかけ、村の方では篝火が灯り、楽しげな声と甘い匂いが漂ってくる。
入り口には松明を持った男——森で橘花を化け物呼ばわりした男——が待っていた。
トウモロコシを焼いているらしく「一緒にどうだ」と誘われたが、丁寧に断る。「川で水浴びをする」と告げ、その場を離れた。
(助けてもらった相手なら、呼んでから食べ始めるもんじゃないか? しかも『混ざらないか』って……。日本のおもてなしを舐めんなよ)
地図で見た川へ向かうが、悪臭は纏わりついて離れない。
到着してアイテムから五右衛門風呂を取り出すと、薪までセットされ湯が沸いていた。
(これ……川、来なくてもよかったな)
少し笑って、周囲にモンスター除けを張り巡らせ、篝火を焚き、服を脱いで湯に浸かる。
湯気と川音に包まれながら徳利を傾け、空を見上げる。
満月の光が、今だけはすべてを忘れさせてくれる気がした。
だが、右手を見つめて——盛大に溜息を吐いた。
口寂しさに負け、酒の入った徳利と御猪口を盆ごと湯面に浮かべる。ついでに串に刺した唐揚げも出した。どうにも食い足りない。
体重だの栄養バランスだのは、この際どうでもいい。今は、ただエネルギー補給だ。
唐揚げに歯を立てようとした――その時。
「こんなところでひとり晩酌かよ」
不意に背後から声が降ってきて、思わず湯の中で振り返る。五右衛門風呂の縁越しに見下ろすと、少年が立っていた。
「えっと、君は……」
「ペーターだ」
「山羊と戯れるのが得意そうな名前だな」
「馬鹿にしてんのか」
眉間に皺を寄せ、不機嫌さを隠そうともしない。それでも、前に会ったときのようにそっぽを向いて立ち去る気配はなかった。
ペーターの視線を辿ると、橘花の手の唐揚げ串に行き着く。
「食べるか?」
その一言で、少年の瞳が一瞬だけ輝く。欲しい玩具を目の前に出された子供の、あの視線だ。
だが、すぐに我に返ったのか、顔だけをぷいと反らし――
「いるか、そんな変なもの!」
……わかりやすい。
「じゃ、全身きれいにしてから食おうか」
「食うなんて言ってない!」
「ままま、さっぱりするから入ってみろって。あ、ついでに試しで――『鑑定』」
浮かべた言葉と同時に、視界の端に淡い文字列が現れる。
鑑定結果:『蜜病:初期症状』
やはり、か――。
橘花はため息を一つ。病の蔓延する洞窟内に何度も入っていれば、こうもなる。これまで鑑定した病人たちも皆、同じ病名を抱えていた。
症状はそれぞれだが、大半は中期。末期の者はいない。進行は、少なくとも一気に命を奪うほど早くはないらしい。
それでも、今は――
まず、目の前の少年を湯で洗い流すことからだ。




