第25話
橘花が呆然としている間にも、時間は冷酷に過ぎていく。
何がどうなっているのか理解が追いつかず、胸の奥で嫌な想像ばかりが膨れ上がった。
(どういうこと……? 何が起きたの。異常事態なら緊急プロテクトが作動してるはず。なんで戻らないの……。私の身体、今どうなってる? まさか心肺停止とか、脳死判定とか……ないよね?)
「あの……どうかなさいましたか?」
ザザンの声が後ろから届き、橘花ははっと我に返った。
その瞬間、自分の親指から血が滴っているのに気づき、慌てて袖から手拭いを取り出して拭う。
「そんなに、この者達は悪い状態なので?」
彼は橘花の青ざめた顔を、病人達の容態を見たショックだと勘違いしているらしい。
実際、彼らの状態は悪い——いや、悪すぎる。だが、ここで軽々しく「はい」とも答えられない。橘花は医者でも看護師でもないのだ。
症状からすれば、可能性は高いのは感染症。あるいは村全員が食している何かに弱毒性の毒素が含まれ、長期的に蓄積して倒れているか。
鉱山は近くに見えないが、もし鉱毒だったら……考え出せば切りがない。
隔離という判断は、もし感染症なら正しい。
だが——この村の人間族に、衛生知識はほぼ皆無だ。隔離といっても、世話の時にマスクや手袋を使った形跡はない。むしろ村全体が保菌している可能性すら高い。
「……事が大きい。対策を練らねばならぬ」
「は、はぁ……」
ようやく口を開いた橘花に、ザザンはわずかに諦めを帯びた表情を見せ、静かに下がった。
だが、橘花に構っていられる余裕はない。現状から逃げ出したい衝動で胸がいっぱいだった。
ザザンが離れた後、橘花はおそるおそるアイテム欄から『初級ポーション』を取り出し、青い液体を指の傷口にかける。
……瞬間、傷は跡形もなく消えた。
これがゲームなら「大丈夫、これでいける」と胸を張っただろう。
だが——血の痕は残ったままだ。現実がじっとそこにいる。
アイテム倉庫を探れば『お医者さんキット』なるふざけた名前の一式が見つかった。
中身はふざけてなどいない。聴診器、注射器、消毒液。さらにマスク、ゴーグル、手袋、防護服、シューズカバー。
まるでパンデミック地帯に突入する装備そのものだ。
Ⅱ型は酸素ボンベ付き密閉型防護服。……笑える要素はない。
病を断つには原因を突き止めねばならない。
しかし——洞窟から漂う悪臭は、近づくことすら躊躇わせる。そう思っていたその時だった。
あの少年——橘花に向かって叫んでいた黒髪の少年が、ためらいもなく洞窟内へと駆け込んでいくのが見えた。
前髪は顔にかかるほど長く、横顔はまだあどけない。
(えっ……ちょっと待って! マスクも手袋もなしで感染症かもしれない場所に突っ込む気!?)
母と妹が中にいると言っていた。確かに助けたいのだろう。
だが、それでも最低限の防備は——!
橘花は慌てて『お医者さんキット』からマスクとゴーグル、手袋を引き抜き、急ぎ装着して追いかけた。
洞窟に一歩足を踏み入れた瞬間、鼻を突く悪臭に思わず引き返しそうになる。
だが、まだ顔に幼さの残る少年を一人で行かせる選択肢は、大人として持てなかった。
そして——後悔はすぐに訪れた。
橘花を見た病人達が、一斉に怯えたように目を見開く。
「トーマ……」と呼ぶ声が次々と上がる。
中には悲鳴を上げて逃げる者も、必死に謝る者もいた。
(え……何これ……?)
村に入った時、鬼人族を恐れて逃げたのだと説明された村人達。
しかし今目の前にいるのは——怯えるだけでなく、なぜか橘花に謝罪までしてくる病人達。
全員が、一様に「トーマ」と呼ぶ。
訳も分からず適当に「はいはい」と流しつつ、橘花はスキル欄から『鑑定』を試みる。
同時に少年の背中を追い、奥へと進む。
やがて壁際、暗がりに小さく座り込む人影が見えた。
近づくと、それが少年の背中だと分かる。
「おい、君」
声をかけると、少年は肩を跳ね上げ、振り返った。
「うわっ、あんたかよ! ……なんだその顔に着けてるモンは」
「マスクとゴーグルだ」
後ろから声をかけられた衝撃が大きかったのか、あるいは気恥ずかしさからか、少年は話題を逸らそうと橘花の装備を指さす。素直に答えれば、
「……変なの」
とだけ吐き捨て、そっぽを向いた。
少年の傍らには、女性と小さな女の子が横たわっている。息は浅く、頬はこけ、肌は青白い。おそらく母親と妹だろう。
少年の手には、小鉢に入った粥のようなものが握られている。それが彼女たちの食事なのだと悟るが、中身はほとんど減っていない。
やせ細った二人を前に、橘花は何も言えず、沈黙が落ちた。
ふと視線を少年に戻すと、いつの間にかじっと見つめられていて、思わず肩が震える。
「なぁ、どんな魔法を使ったんだ?」
少年は真剣な声で続けた。
「あんなふうに畑が実ったの、四年ぶりだ。それに……ここにいる奴らも助けるつもりなんだろ? あんた、元とはいえ奴隷の村を救おうなんて、物好きだな」
内心――ちゃうねん! 鬼人族は魔法使えないし、あれはただのアイテム使用!
しかもイベントだと思ったからノリで言っただけ!
……などと全力で弁明したかったが、今ここで「できません」などと言えば袋叩きは確実。
橘花はきっちり心の口を縫い付けた。
「まぁ、当てがなかったわけじゃない」
わざと曖昧に言葉を濁し、話題を変える。
「……それにしても、薬草の煎じ方はよく知っていたな。村長から、他に手がなかったと聞いたが」
この村で使われた薬草――根の残骸を調べてみれば、それは『万能草』だった。
本来なら上級モンスターの徘徊する危険地帯でしか採れない希少種。
それが隠れ里の近くに自生しているなど、まずありえない話だ。
どうりで、街に持ち込めば高値で売れるわけだ――。