第145話
「ソータ、私だ……橘花だ! どうして――どうしてわからない!?」
震えた叫びは、祈りそのものだった。
しかし、ソータの瞳は動かない。虚ろで、深く、底のない井戸のようだった。
その絶望を愉しむかのように、ヴァールはソータの傍らに歩いてくると、肩を揺らして笑う。
「“私”以外の接近者を攻撃するよう命じてあってね。……気の毒に、橘花殿。君があの日、牢を力任せに壊していれば、こうはならなかった」
その一言で、橘花の胸の奥の血が一気に沸騰した。刀を握る拳が白く強張る。
ヴァールは意に介さず、淡々と講義でも始めるように言葉をつなぐ。
「セリオ侯爵からの依頼は“橘花殿に一泡吹かせよ”というものだ。いやはや、ここまで仕上げるのは手間だった。命令ひとつで殺せるようにする過程……実に興味深くてね」
「……は?」
橘花だけではない。ヘーゼルもロイドも、耳を疑うしかなかった。
「運ばれてくる素材には『適度に痛めつけてから殺せ』と命じていたんだがね。最初は従順だったよ、モンスター相手には。だが――スラムで捕獲した獣人族を前にしたときだけ、彼は抵抗した。まったく厄介だった」
「……お前……ソータに……何をさせた……」
橘花の声は、怒声よりも恐ろしく低かった。底冷えする沼のような怒りが、ひとつひとつ言葉を震わせる。
「拒めば命令を流す。叫べば流す。嫌がれば流す。――繰り返せば、情緒は削れる。それだけのことさ」
ヴァールは笑った。殺意すら優雅に受け流す、教育者めいた微笑で。
「最初は『兄さん! 橘花さん!』とうるさかったよ。だが、ほら……もう何も言わない。兵器に感情など不要だろう?」
次の瞬間、橘花の身体から熱が爆ぜた。吐息すら刀のような殺意となって空気を裂く。
橘花が踏み出す。だが――
「“私を守れ”」
ヴァールが短く命じた途端、ソータが橘花の前に立ちはだかり、容赦のない魔法を放った。
炎。風刃。衝撃波。
ひとつ避けるたび、皮膚が焦げる匂いが鼻を刺す。魔法耐性のない橘花には、かすっただけでも致命的だ。
それでも――斬れない。
斬ってしまえば終わる。終わらせるわけにはいかない。
橘花は無言で刀を構え直し、ヴァールに肉薄する。
しかし、即座にソータが魔法を放つ。体に直撃しそうになるたび、避けつつ前に進む。ヴァールに刃を向ければ、自ずとソータに近づくことになり、その度に魔法が降り注ぐ。
掠るたびダメージは蓄積していった。それも、効果抜群の魔法攻撃だ。
いくら橘花がキャラを育ててきたとはいえ、強靭な肉体を持つ鬼人族でも、耐性のない魔法を連続で当てられれば体力が削られていく。
「くっ……!」
直撃を避けても余波で近くの壁に叩きつけられ、肩が焼け、視界が揺れようと、橘花は立ち上がる。
(守れなかったのは……私だ)
ゲートの存在を知りながら、あの日、別のことを優先した。
茶々たちを守ってほしいなどと頼まなければ、ソータも他の三人も、今頃は親元に戻って普通の生活ができたかもしれない。
帰れと言えたのに、言わなかった。
悔恨が胸を締めつける。
――だが、今は嘆いている暇はない。
(泣く権利があるのは……ソータだ。私じゃない)
橘花は刀を構え直し、震える呼吸を整えた。しかし、状況打破する手段が思いつかない。
どうにか、ヴァールを叩き斬って隷属の首輪の効力を主人がいない状況に持ち込めれば、或いはーー。
ソータを傷つけずに済ます方法を必死に考えていた。
──その瞬間。
視界に、どこか懐かしいUIが唐突に浮かんだ。
『ロードが終わりました。ルティーヤーを召喚します』
「…………は?」
痛みも怒りも、一瞬だけ完全に吹き飛んだ。場違いにもほどがある軽快なメッセージ。
ロード?
(……ロード? ロードって……あの……?)
ずいぶん前だ。この世界に来て何もわからず混乱していた頃。色々と試してメニューを開き、やってみた式神召喚。お試し感覚で――しかも召喚できるようになったと告知されたばかりの、ルティーヤーを選択した。
だが何も起きなかったのだ。
現実世界になってるなら、ファンタジーのこういった召喚もできないんだと、その時は思っていた。
そう思っていたから、キャンセルもせずに放置していた。
(あれ……今ロード終わったって……どんな通信環境だよ!?)
世界観が破壊される勢いでツッコミが脳内を駆け巡る。よりによって、こんなタイミングで。
(ちょ、TPO! 空気読め!! 過去の私っ!!)
怒りの矛先が、過去の自分に向く。
もし今すぐ過去へ戻れるなら、あの時の自分の後頭部を回し蹴りしたかった。
「しょ、召喚しますって……待っ――」
止める暇など、当然なかった。
光が爆ぜた。
轟音。膨張する魔力。
地下を満たすほどの白光が奔り、空気ごと震わせる。
ヴァールすら目を見開いた。ソータの無表情な瞳に、わずかに光が揺らめく。
そして――。
白い巨影が降臨した。
白銀の鱗。神を思わせる威光。金色の双眸が地下の闇を貫く。
白龍王、ルティーヤー。
ゲームの最強召喚獣が、ロード完了とともに遅れてやってきたのだ。
橘花にじわじわと怒りがわいてくる。
「……いや……だから……今じゃなーーい!!」
その叫びは、神威の爆風にかき消され、誰にも届かなかった。




