第144話
金属の扉が開く音が響いた後、しばらく静寂が続いたーー。
ロイドは視線を檻の中の少年に向け、言葉もなく見つめた。
隷属の首輪、手枷。赤黒く腫れた手首。うっすらと開いたままの目。
これを人道的実験と呼べるわけがない。ロイドの喉が乾き、奥歯がきしんだ。
「……ひとまず保護をーー」
副官のガウルが一歩踏み出し、檻に近寄ろうと手を伸ばした。
だが――。
バチィッ。
火花のような音が響き、ガウルの身体が弾かれた。
反射的に腕を抱えこんだ彼の手は、皮膚が焼けただれている。衝撃で骨の芯まで痛みが走ったのだろう、顔が歪んでいた。
「魔力障壁……? こんな強度のものを……誰が……」
ロイドは思わず息を呑んだ。
ただの魔力障壁ではない。触れただけで火傷を負う殺意の壁だ。
軍務局の実験区画であっても、ここまでの防御を張る必要など本来ないはず――。
ロイドたちが戸惑いに固まる中で、ただ一人、橘花だけが静かに前へ進んだ。
「橘花殿、無茶だ! 触れれば――」
「見てたから分かる」
淡々とした声。
だが、その瞳の奥には、爆ぜる寸前の怒りが押し込められているのをロイドは悟った。
橘花は刀を抜き、障壁へ一閃。
透明な壁がひび割れるように裂け――同時に、瞬時に再構築された。
「あれほどの一撃を……再生が早すぎる……!」
ロイドが絶句するのを背中で聞きながら、橘花は斬撃の感触を確かめるように息を潜めた。
「……一瞬なら、通るな」
囁きのように漏れた声は冷静そのものだった。
そして次の瞬間、橘花の姿がかき消えた。
斬撃、破裂音。
できたばかりの隙間に、橘花は勢いを殺さず体をねじ込み、魔力の切れ目の中へ飛び込んだ。
「橘花っ!!」
ヘーゼルが叫んだ。
魔力障壁に触れれば、皮膚が焦げる。
魔力耐性がゼロの鬼人族――下手に触れるだけで致命傷になりかねない。
他の人間がいるところで、それを橘花に注意できないヘーゼルは、歯を食いしばる。
それをわかっているはずの橘花本人は、全身に刻まれる痛みも、燃えるような火傷も、まるで存在しないかのように突き進む。
わずかに焦げる匂いが一瞬漂い、ヘーゼルは息を呑んだ。
それでも橘花の足は止まらなかった。
一部接触した痛みに歯を食いしばり、再生する魔力障壁を紙一重でかいくぐって、檻の間近へ――。
その姿を見たロイドは、ようやく理解した。
(これが……橘花という男か)
ただの冒険者でも、ただの戦士でもない。
理性と怒りを極限にまで研ぎ澄まし、痛みすら切り捨て、ただ守るべきもののために動く男。
監査官としての冷静さも、軍人としての誇りも、思考のどこかへ飛んでいた。
その場にいた誰もが――橘花だけを、恐ろしくも頼もしい“突破口”として見ていた。
そして橘花は、ついにソータの檻の前へ辿り着いた。
「ーーソータ、今助けてやるからな!」
橘花は刹那、刀を振るった。鉄檻は細かく切れ、バラバラに崩れていく。だが、檻の向こうから返ってくるはずの声は――ない。
胸の奥が、不吉な予感でじわりと締めつけられていく。ソータの手首は赤く腫れ、皮膚は擦れて血が滲んでいた。泣きはらした眼の跡、抵抗した痕。その一つ一つが、少年が「助けを待ち続けた」証だった。
橘花の喉が震える。
「ソータ……もう大丈夫だ。迎えに来たぞ」
手を伸ばした――その瞬間だった。
ボンッ。
火炎が破裂し、轟音と共に橘花の胸を正面から灼きつくした。
「ぐあああああっ!!」
皮膚が焼け、焦げた臭いが立ちのぼる。肉が焼ける感覚が、全身に、骨に、内臓にまで響いた。この世界に来てから、初めての――痛みで視界が白むほどの感覚に、膝から頽れる。
だが、橘花の心を抉ったのは痛覚ではない。
火を放ったのが誰なのか、理解してしまったからだ。
ソータだ。
震える膝に手を置きながら、ゆっくりと顔を上げる。檻から解放されたはずの少年は、そこに立っていた。だが――その眼は、まるで闇の底に沈められたように、光がなかった。
「ぐっ……ソータ……!?」
声が震える。痛みではなく、恐怖とも悲しみともつかぬ、胸を引き裂く感情で。
助けたかった。そのためにここへ来た。それなのに……。
「……帰ろう。みんなのところへ……な?」
縋るように手を伸ばす。だが、少年は応えない。まるで何も聞こえていないかのように、杖を構え、次の呪文を紡ぎはじめていた。
橘花の呼吸が、かすれ、乱れた。
どれだけ泣いただろう。どれだけ怖かっただろう。どれだけ必死に抗ったのだろう。
守りたかったのに。こんな形で目の前に立たせるために来たんじゃないのに。
怒りが、悲しみが、胸の奥でぶつかり合って、裂ける。自分が間に合わなかったという罪悪感が、焼けた皮膚よりも酷く痛む。
その時だった。奥の闇の底から、冷ややかな声が響いた。
「無粋だね。招待もされていない者が、ここに足を踏み入れるなんて」
現れたのは、ヴァール・ハインツ。無表情のまま、瞳だけが愉しげに揺れている。
「テメェ、ソータに……何をしたッ!!」
橘花の怒声は、悲鳴に近かった。
「何とは。見ればわかるだろう?」
ヴァールは肩を竦め、軽い口調で――しかし内容は致命的だった。
「魔導実験だよ。栄えある人間族の未来の礎となる。光栄な役目だと思うがね」
「ヴァール殿、これは……報告と違う! いや、報告自体が虚偽だったのだな!?」
ロイドが声を荒げる。だがヴァールの薄笑いは、冷気そのもののようだった。
「本当のことを書けば、うるさいでしょう? 倫理がどうだ、危険がどうだと。結果を急かすのに、文句ばかりだ。だから少しだけ情報を控えただけですよ、ロイド殿」
言葉のひとつひとつが、残酷なまでに平淡で。その軽さが、逆に場の空気を重くした。
ソータの虚ろな瞳。ヴァールの冷酷な笑み。そして、目の前で少年を救えないという事実。
橘花の胸の奥で、何かが軋む音がした。
壊れそうなほどの憤りと、どうしようもない悔しさ。焼けた皮膚よりも、折れそうなほど――心が痛かった。




