第135話
侯爵の執務室は、重厚な赤絨毯と油の匂いに満ちていた。
壁に飾られた剣や勲章が、怒声と共に震える。
「――何を考えている、ヴァール・ハインツ!」
玉座にも似た椅子を蹴り飛ばし、侯爵は机を叩きつけた。
「私が望んだのは“あの女の鬼人”だ! 茶々という異種の雌を捕らえ、見せしめにすること。それが、なぜ人間族の小僧などを連れてくる!」
対するヴァールは、怯むことなく一礼した。
「侯爵閣下。ご下命の意図、重々承知しております。ですが――」
静かな声に、侯爵の怒りが一瞬だけ鈍る。
「調査の結果、この男も鬼人族の橘花、ならびにその仲間たちと行動を共にしていた者。仲間意識が強いのなら、囚えた価値はあります。“茶々”の代わりとして、鬼人族の雄を苦しめるには充分かと」
侯爵は深く鼻を鳴らした。
確かに、鬼人族は群れる。感情的で、仲間に弱い。
だが――。
「人間を、同じ人間の手で弄ぶなど……外聞が悪いではないか」
彼は手袋を外し、ため息まじりに呟いた。
「我らは人間族至上主義を掲げている。下賤な異種を扱うのとは訳が違う」
ヴァールは目を伏せたまま言葉を重ねる。
「承知しております、閣下。ですが、この件は外に出ることはありません。処理も、実験も――すべて私の指揮下で行う。“結果”だけを、閣下にご覧いただければよろしい」
侯爵の眉がぴくりと動いた。
しばらく沈黙が続き、やがて口角が持ち上がる。
「……よかろう。責任は貴様が取れ。あの鬼人族を地に堕とすのなら、人間ひとり、犠牲になっても構わん」
ゆっくりと椅子に腰を下ろし、侯爵は笑った。
「奴の怒りを煽り、暴れさせろ。そして“異種族は危険だ”と、民衆の前で証明してやる。――それでいい」
ヴァールは静かに頭を垂れた。
だがその瞳は、侯爵とは別の冷たい光を宿していた。
(証明するのは危険ではない。支配できるという現実だ)
⸻
「――犬どもがいなくなった?」
報告書を受け取ったヴァール・ハインツは、短く息を吐いた。
見回りの兵たちは、顔を青くして彼の前に並んでいる。
鍵は壊れておらず、監視の魔法も異常なし。
だが、奥の牢に収監していたはずの獣人たちは、跡形もなく消えていた。
報告を上げれば、自分たちが責を問われるのは確実。
だからこそ、侯爵に知られる前に“処理”を求めて、彼のもとへ駆け込んできたのだ。
知らせを受けたヴァールは、地下牢に降りた。
見て回るが異常は見当たらない。ただ奥の牢にいたはずの獣人たちがいなくなっている状況。
鍵は壊されていない。
監視の魔法も異常なし。
その上、橘花の手枷は魔法封じの拘束陣が刻まれている。
脱出も、手引きも、常識の範疇ではありえない。
ヴァールはゆっくりと視線を向けて、牢の中の鬼人族を見据えた。
「同じ地下牢なのに、何も見ていないと聞いた。本当かね?」
その問いに橘花は、薄い笑みを浮かべたまま、首を傾げる。
「私は寝ていたし、他に収監者がいたなんて兵士から聞かされて知ったくらいだよ?」
まるで退屈な雑談でもするような調子だった。
その飄々とした態度が、逆にヴァールの警戒心を煽る。
――鬼人族は、魔法とは異なる“術”を使う。
古い文献の片隅で読んだ記述が、ふと脳裏をよぎった。
人の感知を逃れる奇怪な力。
「見えず、測れず、縛れぬ」
そう評される未知の技法。
ヴァールは顎に手を添え、橘花の姿を見つめた。
術封じの魔法陣は、確かに正常に働いている。
鉄格子の外で、灯火がぱち、と鳴った。
「獣人どもがいなくなった。……お前の仕業だろう?」
低い声が静寂を裂く。
橘花は、石壁に背を預けたまま、面倒くさそうに片眉を上げた。
「私が寝ている間に脱走したなんて、器用な奴らもいたもんだな」
「惚けるな」
ヴァールは冷たく言い放つ。
「鍵は壊されていない。看守の記憶も改竄の形跡なし。魔法封じの陣も正常に作動していた。……だが、消えた」
「そりゃ、ミステリーだな」
軽口を返す橘花。
その声は飄々としているが、わずかに滲む疲労が隠せない。
ヴァールは橘花の表情をじっと観察しながら、話を変えた。
「鬼人族は“術”というものを使うと聞いた。魔法でも祝福でもない、人には感知できぬ異能を」
「人が勝手にそう言ってるだけだろ。私には何のことか」
「……そうか」
静かな沈黙が、しばし続いた。
灯火の油が焦げる匂いが漂い、遠くで鎖のこすれる音が響く。
ヴァールはゆっくりと立ち上がり、背を向けた。
「まあ、いい。君が黙るなら、こちらで確かめるだけのこと」
「確かめる?」
「ええ。たとえば――“彼”のように、ね」
橘花の眉がかすかに動いた。
「……誰の話だ?」
ヴァールは答えない。
ただ、唇の端をわずかに歪めて言う。
「興味深い結果が出たよ。異種と関わった人間の“心”は脆い。本来なら自力でどうにかできるはずの力も、頼る相手を奪えば――あっけなく崩れるものだ」
「……何の話してんだ、お前」
橘花の声が少しだけ低くなる。
ヴァールは振り返らず、牢の外への通路へ歩きつつ、語りかけた。
「君なら、すぐに理解するだろうさ。時間の問題だ」
灯火の揺らめきが、彼の背を赤く染めた。
やがてその光が遠ざかると、静寂が戻る。
橘花はしばらくその場に座り込み、ぽつりと呟く。
「……なんだ、いまの話」
わからない。
けれど、胸の奥に小さな棘のような不安が刺さって抜けなかった。




