第134話
最初に声をあげたのは、小さな犬の少女だった。
「……く、び……いたく、ない……」
その言葉が引き金になったように、周囲の獣人たちの喉から嗚咽が溢れた。
誰もが、信じ込んでいた。抵抗すれば痛みが走る。そして、誰かが裏切り逃げれば一族の命を奪われる――そう思い込んでいた。
それが「呪い」ではなく、「人間の嘘」だったと知った瞬間、張り詰めていた恐怖が一気に崩れる。
「俺たち……ただ、抗わなかっただけなのか」
「ず……ずっと、怯えて暮らしてたのに……」
涙が頬を伝う。悔しさでも、悲しみでもない。
ようやく、痛みのない呼吸を取り戻せた安堵に、胸が震えた。
首輪が外れたのは、肉体だけではない。彼らの絆を利用した「支配の鎖」が、ようやく心から解けたのだ。
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牢から上の階に繋がる扉をそっと押し開けると、外の通路には人の気配がなかった。
見張りの兵士たちは、すっかり気が緩んでいる。
橘花は解放された獣人たちを振り返った。年老いた者、若い母親、怯える子どもたち。皆が橘花の顔を見つめている。
「行くなら、今のうちだ」
低い声で言いながら、牢の外を確かめる。
獣人たちは互いに顔を見合わせ、ためらいがちに動き出した。
「……あなたは?」
先に歩き出した獣人の女性が振り返る。
橘花は少し考え、ゆっくりと首を振った。
「私は出ないよ」
「なぜ? あなたがいなければ、ここを開けることもできなかった。それに残れば酷い目にあうわ」
「理由がある」
橘花は牢の鉄格子に片手を置いた。
「私がここを出たら、“逃げた”って扱いになる。そうなると、外で動いてくれてる仲間が困るんだ。だから、今は大人しくしておく」
その言葉に、女性は戸惑いを隠せない様子だった。だが、橘花の顔には迷いがなかった。
この判断が正しいかどうかは、橘花にもわからない。だが、王都での異種族の立場、偏見を払拭する機会、ガンジに頼んでいた「正当な裁判」。それらをすべて無にしたくはなかった。
「……私のことは気にするな。今は、自分たちが生き延びる方を考えろ」
橘花は呪符を取り出し、通路に貼り付ける。
淡い光を放ちながら、簡易の結界が展開された。これでしばらくは気配を遮断できる。
「この先の階段を上がれば、裏門につながる廊下がある。そこから外に出られるはずだ」
「でも、この屋敷を出ても、街の外へ出るには兵の検問が……」
「なら、街の中で唯一、外に繋がっている水路を使え。スラム街に外に出れる水路がある」
城下町を散策した時に色々と見ていた橘花は、風景を思い出しながら説明する。
簡易マップは自分にしか見えないので、目印になるようなものを口頭で説明するしかない。
橘花は腕を組み、少し考え込む。
「アルミルって街を知ってるか?」
数人の獣人たちが、顔を見合わせて頷く。
「知ってる……辺境の街だろ? 俺たちの仲間も、あの辺りで暮らしてる奴がいる」
「そうだ。あそこなら、人間族ばかりじゃない。獣人族、混血もそれなりにいる。忌避感情は少ない」
橘花は微笑んだ。
「そこに行け。もし街に来た目的を聞かれたら――“鬼人族の橘花の紹介だ”と言え。あとは何とかしてくれる奴らがいる」
「……きっか、さん?」
「そう。悪いことをすれば捕まる。でも、真面目に生きるつもりなら、きっと居場所は見つかる」
一瞬、沈黙が落ちた。
列の奥から、子どものすすり泣きが聞こえる。若い母親がその背を撫でてあやしていた。
劣悪な環境で限界を迎えている子供たちは、眠る時間だった夜に大人たちが落ち着きがない状態で牢を出ようとしているのを見て、不安からぐずり出す子供もいた。
あまり時間をかけられないとわかると、老人が震える手で橘花の手を握り、頭を下げた。
「ありがとう……あなたは、ワシらを見捨てることもできたろうに。何か理由がおありか? 頼みたいことがあれば、なんでも言ってくれ」
「助けたのは私のエゴだよ。大した理由なんてないさ」
橘花は淡々と答えたが、胸の奥では何かが疼いていた。
彼らを救ったのは気まぐれではない。この世界に来てから何度も見た“差別”と“搾取”。
人間族の名のもとに行われた非道が、異種族たちの生活を壊している現実。
だからせめて、自分が動ける範囲だけでも、誰かを救いたかった。
「早く行け。夜明け前には、兵の交代がある」
橘花の声に促され、獣人たちは静かに頷いた。一人、また一人と、暗い廊下の先へ消えていく。
足音が遠ざかるたびに、橘花はわずかに目を細めた。
最後に残った少年が、勇気を振り絞って口を開く。
「……あなたも、一緒に来てください。でないと、人間族に殺されちゃう」
「ありがとう。でも、ここでやることがあるんだ」
橘花は穏やかに笑うと、少年は唇を噛みしめ、うなずいた。
「……ありがとう。絶対、あなたのこと忘れません」
「それより、前を見ろ。振り返るな」
その言葉に、少年は先に行く大人たちを追いかけ走り出した。
静寂が戻る。
結界が消え、橘花は牢の扉を閉め直した。
再び鍵をかけ、何事もなかったかのように壁際に腰を下ろす。
「ふぅ……さて、のんびり再拘束されますかね」
自嘲気味に呟き、天井を見上げる。石の隙間から差し込む月光が、橘花の銀髪を照らした。
橘花の指先には、まだ墨の跡が残っていた。
解呪の呪符を描いたときのそれ。
あの札が光を放ち、鎖を断つ瞬間――確かに自分は“誰かを救えた”。
それだけで、今は充分だった。




