第133話
橘花は自分が元いた牢に戻ると、薄暗い空間に浮かぶUIを見つめながら座っていた。
「……こんな状態か」
小さく息を吐き、膝の上に広げた簡易マップを確認した。獣人たちの人数は、奥の牢の中に隣と一人分スペースが空けばいいくらいの広さしかない。普通の罪人ならここまで詰め込まないだろう。首輪の存在と人数を考えると、捕虜に近い扱いだ。
薄暗い光の中、橘花は指先を動かす。ストレージから取り出したのは、専用の札紙――呪符を作るための特製紙だ。
持っててよかった、札師のスキル。
熟練度もMAXなので失敗なく高等呪術を書き込むことができる、後方支援タイプの呪術士に必須のスキル。
こちらの世界で札が売られているところをまだ見かけないため、消耗品である紙の書き損じは極力したくない。
「さて……やるか」
墨と小さな筆を取り出す。まずは基本の解呪印を描き込む。紙の表面に、陰陽師が用いるような複雑な紋様と、細かい呪文が滑らかに走る。橘花の手の動きは、熟練の職人のように正確で無駄がない。
「この一枚で、一人の縛りを断つ……」
呟くと、紙の紋様が淡く光り始めた。呪符に力が宿った証拠だ。橘花は次々と紙を切り出し、必要な枚数を用意する。牢の空気は緊張で重い。
必要な枚数の呪符が揃った。
書いたはいいが、相手側の意向を聞かなければいけない。
気がつけば朝日が昇っており、牢屋の外から差し込む光が眩しく感じる。
一晩中ずっと札に書き込んでいて眠気もある中、すでに見回りが降りてくる時間になっていることに焦った。
慌てて諸々の道具と札をストレージに片付け、ここに来た時と同じようにのほほんとした雰囲気を演じる。
見回りは一様、降りてきた。しかし、いつもの兵たちではなく、従者のような戦闘向きではない年端も行かない少年だった。
なんだかザワザワしている上の階の様子が気になり、尋ねてみる。
「ねぇ、上が騒がしいし、いつもの兵士さんじゃないけど、今日はどうしたの?」
橘花の問いに鉄格子の向こうで、ビクリと体が跳ねる少年。
声をかけられるとは思わなかったのだろう、おどおどしている。
「ひっどいなー、無視なんかしてー。朝来た少年、ちゃんとお仕事してなかったって言い付けちゃおうかなー?」
脅すような言葉遣いは避けたが、弱い立場の者に対しては、完全に優しくない言い方だった。
「や、屋敷を離れていた隊長さんの一人が帰ってきたんです。で、でも、侯爵さまの望んだ成果ではなかったため、し、仕置きで……」
「うぅ……っ」と泣きそうになっている少年に心抉られる。
とりあえず、あの威張りんぼの侯爵がお冠になっているため、大事になっているらしい。
「はいはい、ごめんねー? ほら、飴ちゃんあげるから、泣かない泣かない」
差し出した飴玉に視線は一瞬行ったが、橘花の容姿が怖いのか、近寄ってこない。
「顔が怖いなら向こう向いてるから、持っていきな」
そう言ってから後ろを向く。
しばらく待っていると、手の平に軽い衝撃と、走り去る足音。
顔を戻してみると、手の上の飴は持っていってくれたようだ。
いたいけな少年を泣かせてしまった罪悪感は、とりあえず緩和した。
⸻
再び夜がやってくると、今日も見回りはある程度の時間になると切り上げられた。
朝の騒動で動きが変わるかと思ったが、依然として上の階の気配はあっても、雰囲気からして見回りの兵士たちは、ゆったりとした時間を過ごしているらしい。
こっそり牢を抜け出すと、橘花は再び獣人たちの牢の前へ行った。
「あんたら、自由になりたいか?」
静かに声音を落として問う。
全員ではないにしても、ピクリと耳が動いて、視線もこちらに向く。
「で、でも、あんたは魔法が使えないんだろ?」
「魔法は使えないけれど、これでも呪術師職を習得してるからな。手間と時間はかかるが解呪はできる」
その言葉に、ノロノロと鉄格子の方に集まりだす獣人たち。
「でも、あの時みたいに魔法が連動したら、みんな死んでしまうわ」
不安げに呟く女性。子供を抱きしめながら、微かに体が震えている。
その”あの時”を知らない橘花が事情を聞くと、見せしめとして一人解呪させられた瞬間に仲間の一人の首輪が絞まり出し、そのまま物理的に落ちたのだという。
思い出しながら震えて話すその様子に嘘ではないが、本当でもない部分を見抜いた橘花。
「それ、違う細工された首輪だな。隷属の首輪は精神干渉によって肉体に苦痛を与えたり、行動を支配するものだ。一人でも解呪されれば、全員の首輪が絞まるんだろ? なら、なぜその時、今ここにいる全員の首輪が絞まらなかったんだ?」
その言葉に全員が、ハッと目を見張った。
「あんたらの首を絞めていたのは、魔法でも呪いでもない。"人間の嘘"だ」
その言葉に、次第に嗚咽を漏らし始める獣人たち。
「もう一度聞く。あんたら、自由になりたいか?」
橘花の問いに、獣人たちは静かに、しかし力強く頷く。
「よし、準備するから待っていろ」そう言ってすぐに行動に移る橘花の指示に従い、渡された呪符を破れないように互いの首輪に巻き付けていく。
「始めるぞ」
全員の首輪に呪符を撒き終わったのを確認した瞬間、橘花は軽く胸の前で両手を合わせるように叩き、呪文と手の印を組み合わせながら唱え始める。
同時に祈るように獣人たちは身を縮め、お互いに手を握り合いながらジッと儀式を見守っていた。
「穢れを断つ理よ、我が声に応えよ。闇に絡む鎖を解き放ち、虚ろなる呪いを祓え。清浄の光、此処に集え──」
声とともに、橘花の前に淡い光の渦が生まれた。そこから光の粒子が放たれ、呪符に付くと、同じく札から放たれ始めた清浄の光が首輪を包み込む。
「天地の理よ、反転せよ。偽りの結び、虚ろの鎖、我はこれを知り、これを断つ。呪よ、命を縛るな――《祓禊》・断印!」
光は弱々しい炎のように揺れ、やがて首輪を覆い尽くす。
獣人たちはその光を浴び、首輪にヒビが入った瞬間、音を立てて外れる。
「……解けたな」
小さくつぶやく橘花。地面に落ちた首輪を見下ろしながら、獣人たちの表情が変わるのを見た。恐怖から解放された瞳に、微かな希望の光が戻っていた。
「よし、これで話ができる」
橘花は静かに立ち上がり、獣人たちの方に手を伸ばす。
「大丈夫、怖がらなくていい。解呪は成功だ」
首輪を解かれた者の中には、まだ体が硬直している者もいる。老人や子どもは無理に動こうとせず、橘花の言葉を頼るようにじっと見ていた。橘花はその光景を目にしながらも、心を集中させ、再度呪符を確認する。全員が安全に動けるよう、必要に応じてもう一度札を用意できるようにする。
呪符は消耗品だ。使用すれば一枚消え、再び書き直さなければならない。しかし札師スキルを持つ橘花にとって、それは恐れるべきことではない。失敗なく書き込み、必要な時に発動できる。魔法使いのように瞬時に連発はできないが、確実性という利点がある。
「あとは君たちの判断だ」
橘花は首輪を外された獣人たちに向かって微笑む。彼らは戸惑いながらも、ようやく自由に動き始める。首輪の呪縛が消えた瞬間、体中の力が戻るのを感じているかのようだった。
牢の奥に漂う緊張は、少しずつ緩んでいく。橘花はその場に立ち、短く息をつく。
暗く重い牢内に、清浄の光と、希望の光がわずかに差し込む――呪符を用いた僅かな奇跡だった。




