第132話
馬車の車輪が、ぬかるんだ街道を軋ませながら進んでいた。
夜明け前。空の端が青白く染まりはじめる。
灰色の外套に身を包んだ男──ヴァール・ハインツは、揺れる灯火の中で黙って報告書を書いていた。
隣の檻馬車には、ソータが横たわっている。
魔力抑制の腕輪と、首にはまった隷属の首輪。
身体の自由を奪われ、意識はまだ深い霧の中にあった。
「……見た目はただの少年だな」
ヴァールは記録用の紙に短く書き込む。
『対象:人間族 年齢十七前後 魔力反応:高出力・安定。』
カリ、カリ、と筆先が震える。
「これほどの制御域を持つとは。王都の魔導学院を首席で出るレベルだぞ」
呟きが誰にも届くことはない。
車内の他の兵士は、眠り薬を盛られたように黙っていた。
ガタン、と車輪が石を踏んだ拍子に、ソータの指先がわずかに動いた。
「……ぁ、……」
その声に、ヴァールの視線が向く。
「おや、もう起きたか。薬の効きが悪いのか、それとも状態異常解除のスキルでも持っているのか」
ソータの視界はぼやけていた。
天井から下がったランタンが二重に見える。
喉を動かしてもすぐに声が出ない。代わりに、震える息が漏れた。
「……おまえ……誰、だ……」
ヴァールは無表情のまま、羽ペンを置いた。
「誰でもない。お前の才能を正しく使える者、程度の認識でいてくれたまえ」
「……才能?」
「そうだ。お前の“魔力構造”は、人間の枠に収まっていない。高度な解呪魔法を、詠唱一つで複数の対象へ放つ。──あれは実験素材として、極上だ」
ソータの目がかすかに見開かれた。
「……実験、だと……?」
「誤解するな。痛みを与えるためじゃない。お前の中の“魔力核”を解析できれば、我々は神域に届く」
言葉が、遠のく。
ソータの意識がまた沈む。
「生死問わずとの命令だったので、その後の処理として素材はもらえる約束をいただいていたのだがな。戦闘種族と言われる鬼人族の体で実験をしたかったが、まぁ、王都にもう一匹いる。そこで、お前を使った結果の披露をすれば、お叱りも少なく済むだろう」
ヴァールは冷たい笑みを浮かべると、部下に声をかけた。
「薬を追加しろ。王都まで余計な会話は不要だ」
命令が淡々とこなされる。腕を掴まれたソータは、抵抗しようとするが力が思うように入らない。
注射のような物で薬を打たれたソータの瞳が、再び閉じていく。
──その瞼の裏に、仲間の顔が浮かぶ。
(茶々さん、ウェンツ、エレン、リュート、イサミ……。また迷惑かけて、ごめん……兄さん)
その呟きが、誰の耳にも届くことはなかった。
ヴァールはふと夜明けの空を見上げた。
遠く、王都の塔が朝靄の中に影を落としている。
「安心しろ、少年。お前はこの国の“未来”のために使われる」
車輪が再び軋む。
馬の鼻息とともに、王都への街道を馬車が進む。
そこに、人としての尊厳を守る声は──ひとつもなかった。
⸻
橘花は、地下牢の湿った石壁にもたれかかりながら、ひとりで欠伸を噛み殺していた。
「ふあぁ……。退屈すぎて死にそう」
長い銀髪を軽く束ね直し、天井を見上げる。
外の空気がどんな状態かも分からない。
そもそも、ここが王都のどの辺りなのかも不明だ。
唯一の情報源である見張りの兵士たちは、最初こそ警戒していたが、
橘花が暴れもせず、寝転がって過ごす様子を見てからは、徐々に気を抜き始めていた。
「鬼人族ってのは、もっと獰猛だと思ってたがな」
「こいつ、根が善人っぽいぜ。飯もちゃんと食うし、礼も言うし」
「……むしろ、妙に気味が悪いな。笑ってばっかで」
そんな会話が聞こえてきても、橘花は特に気にする様子もなく、牢の中で足を投げ出した。
この無意味な時間をどうにかする術もなく、ただ頭の中で料理の献立を考える。
「パンは硬いけど、あのスープはまぁまぁだったな……。あれ、干し肉じゃなくて保存魚使ってるな。バレないと思ってんのかね」
のほほんとした声が、地下の空気に虚しく響いた。
静寂。
だが、そんな橘花の緑色の瞳がふと、牢の奥を向く。
「……ん?」
気配。
微かな呼吸音。
湿気に混ざって、土と獣毛の匂いが鼻を掠めた。
橘花は眉をひそめ、無言で手をかざした。半透明の簡易マップが展開する。
ゲーム時代から染みついた癖のような動作だ。
「……影、三つ……いや、もっと奥にも?」
マップの端に、ぼやけた青い影が幾つも重なっていた。
生体反応。だが、牢の構造上、そこは壁を隔てたはずの奥部だ。
「同じように捕まってる罪人?……でも、ひとつの牢にこんな数、詰め込むか?」
首を傾げた。見張りたちはもう、酒でも飲んでいるのか上の階にいる。
夜更けの地下牢は、遠くの滴る水音と自分の呼吸しか聞こえない。
橘花はゆっくりと腰を上げた。鎖が鳴らないよう、慎重に。
ストレージから小さな細工針を取り出すと、牢の鍵穴に差し込んだ。
――カチリ。
軽い音。
ゲーム時代の「解錠スキル」が身体に染みついている。
「現実でも案外いけるんだな……」
扉をわずかに開け、橘花は廊下に出る。
足音を殺し、湿った床を歩く。
錆びた鉄格子をひとつひとつ通り過ぎ進む。どれも空牢ばかりだ。
そして、最奥。
そこだけ、空気が違っていた。鼻を突く獣臭と、血の匂い。
蝋燭も灯されていない闇の中から、無数の視線が返ってくる。
「……誰か、いる?」
橘花が声を落とすと、暗がりの奥からかすかな声が返ってきた。
しゃがれた老人の声。
「……お前も、捕まった口か」
「まぁ、そんなとこ。でも、アンタら……罪人って感じじゃないな」
人間族と違い、夜目が利く橘花がそっと覗き込むと、奥の牢の中に人影が浮かび上がる。
犬の獣人族――年老いた者、若い母親、怯えた子供たち。
粗末な布に包まれ、痩せ細った身体が寄り添うように固まっている。
そして、全員の首には黒色の輪――隷属の首輪がはまっていた。
「……あ、これ」
橘花の声が低くなる。
鎖の輝きは微かに魔力を帯び、淡く光を放っていた。
「罪人ってより、捕虜……?」
独り言のように呟いた橘花の言葉に、老人が顔を上げた。
濁った瞳が、わずかに希望を取り戻す。
「……お前、外の者か? 助けに……」
「いや、今んとこ私も捕まってんだ。でも、何があったかは知りたい」
橘花は鉄格子の前に膝をつき、声を潜める。
母親らしき獣人が震える声で答えた。
「もう何ヶ月も前に村が襲われました。人間族の兵が来て、男たちは連れて行かれ……残った私たちはここに」
「男たち?」
「素材が良いと言われて……別の場所に……」
その言葉に、橘花の眉がぴくりと動いた。
頭の中に、あの嫌な響きが蘇る。ーー素材、実験、人体。
自分の世界の知識が、無意識に結びついてしまう。
PAOのゲーム初期時代にもそうしたクエストがあった。胸糞すぎて再挑戦を諦めるプレイヤーが多発したものだ。
「……なるほどね」
口の端が笑みに歪んだ。
けれど、その笑みは氷のように冷たかった。
「……あんたら、ここから出たいか?」
問いかけると、獣人たちは一瞬息を呑む。
恐怖と希望が交錯する瞳が、橘花を見つめていた。
「で、でも……首輪が……」
「見りゃ分かる。隷属の首輪だな。普通に壊したら、術式が逆流して命を落とすタイプ……」
「いえ、犠牲になるのが外そうとした一人のみならば抗ったでしょう。しかし、外そうとすればそれ以外の者の首輪が絞まり、首が落ちるのです」
橘花はしばらく考え込み、鑑定を使った。
獣人たちにつけられた隷属の首輪を鑑定したが、付与されているのは隷属の魔法のみ。抵抗して首輪を壊した時のみ、命を落とす仕組みになっていた。
だが、すぐに顔をしかめる。
「助からないのか……?」
橘花の表情を見た老人が、微かに声を震わせた。
「そう決まったわけじゃない。これを外すには魔法使いの熟練度の高い解呪が最適だが、私は使えないし、仲間の魔法使いは別の街にいるし……」
「ですから、解呪をしたら、連れて行かれた男たちや、ここにいる老人子供にも害が及ぶんです!」
「いや、その首輪には隷属のみで、他に干渉する魔法は付与されてない。解呪しても誰にも害は及ばないぞ?」
橘花の言葉に、首輪を付けられている獣人たちは目をぱちくりさせる。
「魔法以外の方法を考えるから、明日まで待っててくれ」
上階に続く扉に視線を向けた橘花は、もう一度獣人たちに目を向け、パチリ、と片目を閉じて見せた。




