第128話
悲痛な叫びに、茶々が身を固くする。
「平和だった村が焼かれ、俺たちは捕まった。
取引をしたんだ……! 手先に堕ちようと、仲間を守れるなら、それでいいと……!」
武器を握り直した指は震えている。
互いにかける言葉を持たず、その場に沈黙が落ちた。
「悪いけど――それ、“取引”じゃねぇよな?」
沈黙を切るように、ロイヤードが口を開く。
「それ奴隷の首輪だろ? ゲームの予備知識程度に流し見したPAOの動画で出てた。んなモンつけられてて、対等だなんて笑わせんなよ」
ムルドは言葉を詰まらせた。
喉の奥から、唸りのような声が漏れる。
ロイヤードは後ろを振り返り、ソータに視線で合図を送る。
「ソータ。あの首輪、外してやれ。お前の“解呪”ならいけるだろ?」
ソータは一瞬、迷った。
だが、信じていた。
これは、敵意を解くための最初の一歩になる――と。
深呼吸をひとつ。
先ほどまで溜めていた攻撃魔法を破棄し、杖を構え直すと、再度詠唱が静かに始まる。
「穢れを断つ理よ、我が声に応えよ。闇に絡む鎖を解き放ち、虚ろなる呪いを祓え。清浄の光、此処に集え――。
――《ディスペル》!」
淡い光が獣人たちを包み込んだ。
一瞬の静寂。
次の瞬間、カシャンと乾いた音を立てて、首輪が一斉に外れ、地に落ちた。
「やった……!」
小さく息を弾ませ、エレンが声を上げる。ロイヤードは安堵の笑みを浮かべ、軽く肩をすくめた。
「ほら、これで自由だ。仲間のためってことは、まだ家族が捕まってんだろ? 首輪も外れた。もう悪事に加担する理由はねぇ。捕まってる仲間を助けて一緒に逃げた方が、よっぽど解決早いぜ?」
ロイヤードは善意から言った。
本心から、現場を打開したと思っていた。
だが――沈黙。
獣人たちの表情は、解放の喜びとはほど遠かった。一人、二人と震え始め、やがてムルドが膝をつく。滂沱の涙が頬を伝い、地に落ちる。
そして――睨み上げた。
「……よくも。よくもっ……!」
その叫びは、呪いのように森を震わせた。ロイヤードの背筋を冷たいものが走る。
――何か、取り返しのつかないことをしてしまった。
何が、とは分からないが、言いようのない不安のみ塗りたくられた空気で、早鐘のように心臓が脈打つ。
「解呪など――よくも……! ああああっ、母御っ、リィーニャ、シィークッ!」
獣人のひとりが絶叫した。
それを皮切りに、次々と咆哮が上がる。
「おのれ、人間族めッ!」
「人間族が……よくも、よくもッ!!」
獣人たちの怒号が森を震わせる。
だが、そこにあったのは敵意というより――絶望の慟哭だった。
「な、なんだよこれ……?」
ロイヤードが言葉を失う。
術を発動したソータも、ただ呆然と立ち尽くしていた。
解放を喜ばない。
いや、まるで“解放されたこと”こそが悲劇であるかのように。
茶々の顔が、血の気を失っていく。
(まさか。解呪と同時に、何かの制約が……?)
その答えは、すぐに返ってきた。
「なぜだ、なぜ解呪をっ…!? 我らが解き放たれれば、代わりに囚われた家族の首が落ちると言うに……!」
血を吐くような恨みを解呪を指示したロイヤードに向けながら、ひとりの獣人が膝をついた。
「今から捕まってる場所に向かえば、助けられるかもしれないだろっ!?」
「馬鹿をいえ……、この隷属の首輪が外れた瞬間、連動して発動する。今から向かったとて……」
「ああ……終わりだ。何もかも……」
誰かが呟いたその瞬間、空気が変わった。
森のざわめきが消え、代わりに重い静寂が降りる。
不意に、頽れていたひとりの獣人が立ち上がった。
血走った瞳のまま、剣を握りしめて。
「妻と子が……待っている。お先に――御免」
その言葉と同時に、喉を掻き切った。
鈍い音と共に、赤が地面に広がる。
「なっ……!?」
ロイヤードが止めようとするも遅かった。
それを皮切りに、次々と――。
まるで連鎖反応のように、他の獣人たちが次々と己の喉を裂き、刃を胸に突き立てた。
「馬鹿ッ、何やってんだ! やめろって!! 死ぬなッ!」
ロイヤードが駆け寄り、震える手でポーションを振りかける。
しかし、初級薬では深い傷を塞ぐには力が足りない。
かえって苦しみを長引かせるだけだった。
「ソータ! 治療だ、早くッ!」
「わかった!」
兄の叫びに、ソータは必死に回復魔法の詠唱を始める。
だが光の魔法は弱々しく、血に沈む命の灯を引き戻せない。
ウェンツたちも駆け寄ると、ありったけのポーションを出して助けようと動く。
だが、手から砂がこぼれ落ちるように、だんだんと反応が無くなっていく獣人たち。
そして、ムルドが最後の力を振り絞り、顔を上げた。
涙と血で濡れた瞳が、ロイヤードたちを貫く。
「……恨むぞ、人間族。我らの希望すら踏みつけた、その行為。一生、贖えぬ業を――植えつけてやる……!」
その言葉を残し、ムルドの身体が崩れ落ちた。
沈黙。
血の匂いだけが、森に満ちていく。
ロイヤードたちは、ただ呆然と立ち尽くした。
助けようとした――そのはずだった。
茶々が一歩、前に出た。
膝をつき、冷たくなったムルドの瞳をそっと閉じていく。
「……おそらく、解呪と連動して発動する“呪い”があったのね。彼らの一族を縛る……絶望の連鎖が」
そう呟いた声は、震えていた。
「だから――嘆いたのね。“助かった”のではなく、“一族を犠牲にして生き残った”ことを……」
風が吹いた。
血の香りを運び、葉を揺らす。
森はただ、静かにその惨劇を見届けていた。
⸻
血の匂いが風に散っていく。
森の奥、木々の陰からその惨劇を眺めていた男たちがいた。
全身を黒布で覆った刺客たち。その中で、ひときわ鋭い目をした隊長格の男が、舌打ちをひとつ漏らした。
「役立たずの犬どもめ……」
唾を吐き捨てるように呟く声は、感情の欠片もない。
彼の視線の先には、倒れ伏す犬獣人たち――己が“道具”として扱ってきた者たちの亡骸があった。
だが、そこに哀悼の色は微塵もなかった。
「だが……見事だったな」
彼は目を細める。
先ほど森を照らした光――解呪魔法。
発動したのは、人間族の青年。年端もいかぬ顔立ちでありながら、あれほどの詠唱精度、魔力制御。
凡庸な魔導士ではない。訓練された者の動きだ。
「あの魔法……ただの回復使いではないな。魔法兵団でも中級以上にはなれる腕だ」
口の端に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
それは賞賛ではなく、価値の査定。
「なぜ異種族どもと行動を共にしているのか……甚だ理解に苦しむが――」
低く嗤いながら、続ける。
「――使える。犬ども数匹より、あの一人の方が遥かに価値がある」
冷徹な計算が、その声に滲む。
侯爵への報告が脳裏をよぎる。
鬼人族の仲間に、魔法適正の高い人間族がいる――。
それは、橘花を罪に陥れる材料にも、あるいは新たな駒として利用するにも格好の情報だった。
男はゆっくりと立ち上がり、部下に命じた。
「犬どもの生死確認は不要だ。あの状態では、どうせ使えぬ。だが、最後まで役に立ってもらわねばな」
返事をする部下たちに、男はふと空を見上げた。
木々の隙間から覗く青空。あの光を照らした魔法の残滓が、未だ淡く漂っていた。




