第123話
まだ陽の高い日中、宿舎の中庭にはやわらかな風が流れていた。
湯気の立つ急須と、小さな木皿に並んだ菓子。
茶々はいつもの落ち着いた手つきで湯を注ぎながら、ソータとエレンに微笑みかけた。
「はい、どうぞ。少し休憩にしましょう」
「ありがとうございます、茶々さん!」
「……正直、張り詰めっぱなしだった」
湯呑を受け取ったエレンが、ほっと肩を落とす。
その隣でソータは両手を湯呑に添え、ふう、と息をついた。
どこか緊張を解いたような、優しい顔だ。
茶々はそんなふたりの様子を見ながら、少し柔らかい笑みを浮かべた。
「警戒を怠らないのは良いことですが……身体を壊しては本末転倒です。こういう時こそ、ひと息つくのも大事ですよ」
「……茶々さんって、本当に強い人だな」
エレンがぽつりと呟く。
「ぼくら、気を張ってばかりで。正直、心の余裕なんて全然なくて……」
「強い、ですか?」
茶々は少しだけ目を伏せ、微笑を深めた。
「そんなふうに見えるなら、きっと橘花さんの影響ですね。あの人は、どんな時でも人を安心させる立ち居振る舞いをされますから」
ソータが軽く笑った。
「橘花さんか。……確かに、怒ってる時ですら妙に安心感あるもんなぁ」
「わかる」エレンも同調して頷く。
「なんか、“あの人がいるなら大丈夫”って思っちゃう」
茶々は小さく頷きながら、湯呑に口をつけた。
淡い香草の香りがふわりと鼻をくすぐる。
(――大丈夫。ええ、きっと。橘さんなら)
その心の奥では、橘花の安否を案じる思いが小さく波打っていた。
だが、その不安を表には出さない。
彼女の静けさが、今ここにいる者たちの支えになっているのを知っていたからだ。
「……そういえば、ロイヤードくんたちは、まだ戻らないわね」
「うん、でもあの二人なら心配いらないです」
ソータが茶菓子をひとつ摘みながら笑う。
「むしろ帰ってきたら、“お前ら休んでたのか”って兄さん怒りそう」
「ふふ、それもロイヤードくんらしいわね」
笑い声がこぼれる。
その一瞬だけ、戦乱の影が遠のいたように感じられた。
橘花のいない日々の中でも、彼の残した“穏やかさ”が確かに息づいている。
茶々が湯気の立つ湯呑をそっと置いた、その瞬間だった。
バンっ!と宿舎の扉が破られるように開き、黒い影が乱入した。
顔は黒い布で覆われ、目だけが冷たく光る。彼らの動きは静かで、だが確信に満ちていた――狙いはただ一つ、茶々の確保。ほかは排除する、という意志が滲んでいる。
「目標確認、確保する。抵抗する者は皆排除せよ」
命令口調は冷酷で、感情のかけらもなかった。昼間の宿舎に、その声だけが刃のように刺さる。
反応したのは、茶々の隣にいた二人だった。イサミは体を低く構え、猫獣人らしい重心の置き方で跳躍する。リュートは鋭い視線を放ち、前に立ち塞がった。二人の動きは無駄がなく、息が合っている。
最初の一人が茶々の方へ詰め寄る――その瞬間、イサミが滑るように飛び出した。細い体が相手の懐に入る。鋭い爪先が肉を掠めるほどの距離で、相手の足を払って転倒させ、次の瞬間には、相手の刃を右手で弾き飛ばす。動作は短く、致命的。相手は思わずのけ反り、前線に大きな綻びが生じた。
リュートは隣で、別の男の胸元を掴んで投げ飛ばす。彼の腕は太く、投げの力はただ者ではない。床に叩きつけられた男が呻く間に、リュートは目の前の敵を睨みつけた。
「ここを通すかっ!」その低い声は、合図であり威圧でもある。
しかし、相手は一党。二人が食い止めても、次々に詰め寄ってくる。敵の刃は容赦なく、狙いは明確だ。茶々を奪い去ること、それのためならば他を斬り捨てる算段だと言うことも。
リュートは鋭く刃をかわす。相手の短剣が喉元を掠め、薄い赤が床に落ちるが、致命傷ではない。イサミは素早く回り込み、受け止め役を続ける。その動きの連携は、長年茶々を守ってきた二人の戦士の絆からきていた。
狭い室内では一瞬のうちに緊張が漲り、乾いた空気が牙をむいた。
茶々はその場に立ち尽くすことなく、落ち着いた声で二人に指示を送る。
「イサミ、左を。リュート、真ん中を詰めて。エレンくん、ソータくんが準備できるまで繋いで」
言葉は短く、だが仲間たちの動きは瞬時にそれに追従した。
イサミは鋭く脚を蹴り、敵の剣を弾いてから距離をとる。血の匂いが鼻をかすめるが、彼女の顔には怯えの色はない。むしろ、目は燃えている。いかに若くても、ここで守るべき者のために動くという意思がはっきりとわかる。
リュートの動きは的確だ。彼は素早く相手の袈裟を斬り返し、動きを封じる。相手の装備の綻びを見逃さず、そこへ短い刃を差し込む。だが、二人だけの防御は限界がある。斬り捨てて進もうという男たちの攻勢は激しく、次第に包囲網が縮む。
その時、茶々の隣からソータの低い声が飛んだ。
「障壁、展開っ!」
ソータの足元から静かに紋様が立ち上がり、薄い光の壁が二人の背後を覆った。瞬時に場のバランスが変わる。光の障壁は飛び道具を弾き、足元からの不意の攻撃を封じる。敵の動線が狂う隙を、エレンが突いた。身体を低く翻し、短剣一閃、敵の後肋を深く切り裂く。咄嗟の一撃で動揺が走る。
しかし奴らの意思は折れない。冷たく「殺せ」と促す命令の声が影に残る。リュートは一瞬、身を呈してその一撃を受け止め、仲間を庇った。床に膝をつきながらも、彼は茶々の方へと体を向ける。
「茶々さん、下がって!」と叫ぶ彼の声には、怒りと必死さが混じる。
茶々は一歩引き、部屋のさらに奥へと退く。湯呑は割れ、茶の輪染みが床に広がる。彼女の顔は青ざめておらず、むしろ静かな覚悟がある。
戦いは苛烈さを増し、短時間で血と汗が混じり合う。だが、イサミとリュートの初手は確実に成果を上げた。多数の侵入者を前にしても、彼らは茶々へたどり着かせない。刃が交わり、叫びが上がるたびに、二人は一歩ずつ前線を押し戻す。敵の数が減り、士気が揺らぎ始めるのがわかる。
「まだ持つか?」リュートが短く訊く。息は荒いが声は通る。
「ええ、でも時間が欲しい!」イサミが返す。爪先は震えず、瞳だけが鋭く光る。
数十秒後、遠くから鈍い足音と共に、聞き慣れた声が響いた。
「おい、何事だ!」
戻ってきたロイヤードとウェンツだ。二人は息を切らしながらも、戦線に飛び込んできた。続いて、重厚な足取りで数名の衛兵の顔も見える。
侵入者たちは包囲の見込みが無くなったと悟り、乱れた足取りで窓からの退却を選んだ。だが、その背中に、以前とは違う焦燥が刻まれている。彼らは任務を果たせなかったのだから。
茶々はゆっくりと見回し、仲間たちの肩に手を置いた。周囲には切りつけられた衣の破片、散った茶菓子、そして少し早い呼吸音の響きだけが残った。
「皆、大丈夫?」
茶々が静かに訊ねる。声は震えていない。誰も怪我は深刻ではない。だが目は皆、乱戦の残像で濡れている。
「大丈夫です。けれど、これで奴ら茶々さんを確認したから口実にして乗り込んで来ますね」
「そうね、茶々がいること街の人から聞いたといえば成立するものね」
リュートは深く息をつき、軽く伸びをしてから苦笑を漏らした。続けて忌々しげに、イサミが頷く。
「っしゃ、ここから本番ってわけだな! 敵が来たら順々にぶっ飛ばせばいいってこった!」
「そんな単純じゃないと思う」
ロイヤードが気合を入れると、エレンが即座にツッコム。
そこで少しの笑いは起きたが、全員がわかっていた。敵が手段を選ばなくなってきていると。
イサミが、手のひらに滲む血を指でぬぐう。顔を上げると、そこにはやはり誇りがあった。
「私たちが守る。誰にも茶々は渡さない」
その言葉は、小さな誓いとなって部屋に漂った。茶々はその誓いを胸に刻み、仲間を見渡す。
外にはまだ不穏が蠢いている――だが今は、この瞬間、彼女の周りに集う者たちが勝っていた。




