第122話
王都グランヴェール。
広大な石畳の大通りを見下ろす、白亜の貴族議会館――その会議室には、冷たい空気が漂っていた。
「おい、まだ“橘花”の件は片づかぬのか!」
椅子を叩き、怒鳴り声を上げたのは、セリオ侯爵家の当主、レオナード・セリオ。
頬は紅潮し、焦りと苛立ちが入り混じっている。
「アルミルの一件は、確かに報告が途絶えたままですが……」
側にいた補佐官が言いかけるが、レオナードは机を拳で叩きつけた。
「途絶えた!? 貴族の命令を受けた者が沈黙だと!? そんなことが許されるか!」
周囲の貴族たちが顔を見合わせる。
つい数週間前まで、レオナードは王都でも一目置かれる策士だった。だが今は、明らかに焦燥と怒りに支配されている。
「たかが鬼人族の一匹ごときに、何を恐れる! あの下等な異種が王都の会議で我らに意見したのだぞ!? 許せるか!」
声が会議室に反響する。
だが返る声はない。
「……しかし、侯爵。彼は牢の中にいるのでしょう?」
年配の伯爵が静かに口を開く。
「すでに拘束もされ、魔力封じの結界も施されている。ならば、無理に騒ぎ立てる必要は――」
「黙れ!」
レオナードの怒声が轟く。
「やつは魔法を使った! 牢に火を放たれても無傷だった! あれが何者か、まだ我々は知らぬ!」
伯爵は眉を寄せた。
「……つまり、恐れておられるのですな」
「なに……?」
「下等な異種族にしては、手に負えぬと。だからこそ、今もこうして躍起になっている」
会議室がざわめく。
誰も声を大にしては言わないが、空気の流れが変わった。
人間族至上主義の牙城ですら、レオナードの“私怨”に過ぎぬ執着を見抜き始めていた。
「……お前たちはわからぬのか!」
レオナードが立ち上がる。
「異種を許せば、人間族の地位は地に落ちるのだぞ! 共生だの平等だのとぬかす愚か者が増え、王国は腐る!」
その言葉には確かに同調する者もいた。
だが、皆が一歩引いた目で見ていた。
「……侯爵、我々とて人間族の優位を疑ってはおりません。しかし、王の耳に届く前に、これ以上の暴走は危険です」
「黙れぇ!」
怒鳴り声とともに、レオナードは机上の水晶球を叩き落とした。
「対の水晶」――アルミルに送った刺客と繋がっていた魔道具だ。
粉々に砕け散り、魔力の残滓が床に舞う。
沈黙が訪れる。
やがて、誰かがため息をついた。
「……壊したところで、連絡は戻らぬ」
「侯爵、貴方は冷静さを欠いておられる」
レオナードは拳を握り締め、振り向いた。
「ふん……貴様らもいずれ思い知る。鬼人族の恐ろしさをな。あの“橘花”が牢の中にいる今こそ、人間族の支配を明確に刻む時だ!」
そう叫ぶ声は、もはや狂気の色を帯びていた。
部屋を出て行く彼の背を、誰も追わない。
残された貴族たちは、互いに視線を交わす。
「……あの男、もう駄目だな」
「自分の名誉しか見えていない。鬼人族への警戒は理解できるが、あれでは“戦”を呼ぶ」
「いずれ、あの牢の中の者が本当に動けば――」
そこで、言葉が止まる。
誰もが、その先を言葉にすることを恐れた。
外では、王都の鐘が鳴っていた。
その音が、まるでこの国の秩序の崩壊を告げるように、長く、重く響いていた。
⸻
時間は戻り、橘花が連れて行かれた夜。
夜更けの王都ギルド。
外の街灯はほとんどが消え、残るのはギルドホールの天井灯だけ。
そんな中、分厚い扉が勢いよく開いた。
「お願いだ、あんたにしか頼めねぇ!」
荒い息を吐きながら飛び込んできたのは、アルミルのギルド長のガンジだった。
その後ろ姿には、長年冒険者として数多の戦場を渡ってきた重みがある。
だが今は、そんな彼が縋るような目をしていた。
書類の束を片づけていた査察官ヘーゼル・カーヴィルは、顔を上げた。
「……ガンジ殿? どうした、そんな顔をして」
「橘花が……捕まった!」
その言葉に、ヘーゼルの手が止まった。
「は?」
「“魔導増幅炉のコアの私的使用”だとよ。冤罪だ、ありゃ絶対に!」
ヘーゼルは一瞬だけ目を閉じ、そして椅子を蹴って立ち上がった。
「詳しく話せ。どこで、誰が、どう動いた」
机の上にはまだ温かい紅茶があった。
しかし、ふたりの間に流れる空気は氷のように張り詰めていた。
「……つまり、証拠は王都魔法局の提出書類だけだな」
「そうだ。俺はその場にいたが、橘花がそんな装置を使えるわけがねぇ!」
ヘーゼルは短く息を吐く。
頭の中で、いくつもの線を結び始めた。
「不可解だな。魔導増幅炉のコアの使用には許可書と実験記録が要る。だが、橘花は魔法適性を――いや、何でもない」
途中で言葉を飲み込む。
この情報をうっかり口にすれば、魔法局の密偵が嗅ぎつける可能性がある。
「で、今どこに?」
「おそらく衛兵の牢屋だ。ギルドの管轄を完全に外れてる」
「厄介だな……」
ヘーゼルの声が低く落ちた。
「王都の特例拘留案件は、上位貴族の許可がないと面会もできない」
それでも、ヘーゼルの瞳には迷いがなかった。
「ガンジ殿。私が動く」
「助かる! だが、あんたまで巻き込まれるぞ?」
「構わんさ。私は“真実”を記録する査察官だ。腐った権威に屈するより、正しい方を選ぶ」
短く交わされた言葉の中に、確かな覚悟があった。




