第13話
ペーター君の回想部分です。話が重複する部分もあります。
その日は、いつもと変わりない朝だった。
朝焼けが空を焼く前に、眠たい眼をこすりながらペーターは寝床から這い出した。
家の裏には山羊が二頭かいる。
家畜に餌をやり、昨日汲んで用意しておいた水を盥に入れてから、木で組まれたバケツを持って川へ水を汲みに行く。
最近の暑さで水をたっぷり汲んでおいても悪くなってしまうが、そちらは畑に撒くためならば問題ないと残してある。
家族三人で手分けすれば早く終わるし負担も減る。
しかし、回復しつつあるとはいえまだ本調子ではない母親と妹のために、力仕事は全部自分がやると言ってペーターは譲らなかった。
力をつけるためだと言って一日に何度か川まで往復するが、嘘ではない。今は目標に向かって体力をつけるために、全部が修行だと思っている。
辿り着いた川の水は冷たく、顔を洗うと目が覚める。
川面から顔をあげると薄暗い空を明るく染めて昇っていく太陽が山の向こうから見えた。
水も汲み終わって川から上がり、体についた水気を完全に拭き取ってからその場で正座して居住まいを正すと、大切に布で包んでおいたものの紐を解いて中のモノを出し、紙の代わりに布を口にくわえて黒漆塗りの鞘からゆっくりと引き抜いた。
懐刀――行光。
何度も朝の儀式のようにおこなってきたそれは、堂に入ったものになっている。
掲げた刃が朝日を反射した。
それは、二週間前に村に来た鬼人族の青年からもらった物だ。
ペーターはその光に目を細め、ある人を思い出しながらそっと刃を鞘に戻す。
「――橘花師匠」
† † † † † †
ある日、村から何人もの死人が出るという異常事態のあと、病人が大量に出た。
『万能草』は万病に効くと父親から教えられていた。
生前のトーマから村長のザザンもそれを聞いていたらしく、村の全員を救うために分けてほしいと言われたことが始まりだった。
だが、今年の暑さで残った株はたった三つ。
普段使うことのない薬草だが、最後に採ってきてくれた薬草だからと大切に育てていたペーターの母親も、村のために使うなら夫も許してくれると了承した。
病人に煎じた汁を飲ませると、幾分か体の痛みが和らぐらしかった。
決定的な解決法ではないが病人を助ける手立てがそれしかないと知ると、日照りのような暑さにやられて萎れかけている『万能草』に動ける者全員で手分けして水をやり、日陰を作り、命綱を必死に守っていた。
唯一の村の収入源となるものだが、命には代えられない。
そんな大切に育てられていた薬草が、ごっそり三株持っていかれた。
当然大騒ぎになる。そんな中、知らない少女が薬草を持って村の外れから出て行ったのを見ていた子供達から聞き、全員が草刈りや獣を追い払う程度にしか使っていなかった剣を手に追いかけた。
五年前、要塞から逃げる時に身を守るために持ってきた数少ない武器だ。
森の中で『万能草』を盗んだ少女に追いついたと思った、その時に出会った。
銀の髪と緑の瞳の鬼人族に。
この時のペーターは父親以外の鬼人族と話すのは、初めてだった。
五年前に尋常ではない破裂音や悲鳴、怒号が飛び交う中で見た浅葱色の羽織袴を着た【ミブロ】の戦士。
容赦なく敵を斬り殺していた印象しかなかったため、少女を庇う姿に抗議する声が震えた。
けれども、予想に反して話せる人物だった。
村の事情を知り、病人を何とかしようと言い出した時は、夢でも見ているのかと思った。
しかし、すぐに解決する手立てを見つけられるわけがない。ペーターは自身の居る村人に対して、五年前を思い出して疑心暗鬼のような状態になっていた。
一緒の村に住んでいても人間族は自分で解決できないことがあれば、他人を差し出す冷酷な種族なんだと頭のどこかで思っていた。
橘花に薬の知識があるかもしれないと聞き及んだ時の村人たちの反応は様々だった。
このまま誰かの娘を宛がい村に取り込むか。
しかし、前にいた鬼人族を犠牲にしたことが知られれば何をされるかわからない。
助けてくれるという恩人に対して失礼だ。
この土地で作物を育てる知識だけでも、もらい受ければどうだろうか。
それより病人の多さに手が付けられないと逃げ出されてはかなわない。
ペーター、お前なら同じ血が入っていて気安いだろうから見張っていろ。
聞いていても嫌気がさすほどの話し合いの内容に、下っ端のペーターは頭を下げて従うほかない。
数人は利用してやろうという話を出すが、橘花を客人として扱う者達もいたので対応としては五分五分だろう。
もちろん、まとめ役のザザンはこんな密談があるなど知らないはずだ。もし知っていたとしても、行動に移さないなら問いたださないだろう。
村長であるはずのザザンをのけ者にする者がいる理由は簡単。
ザザンは昔、冒険者をしていて傷を負って引退してから、前の村長の娘と一緒になったいわばよそ者だ。ペーターの母親も村の外から来た者なので、同じような扱いだ。
こうしたことから、村の中も一枚岩ではないことはわかる。
そんな村人たちの身勝手な部分を嫌悪していたペーターは、病人のいる洞窟内にのこのこ入ってきた橘花につい、きつく当たるようなことを言ってしまったのだが。
作物が大量に実って、その夜はお祭り騒ぎになった。
柔らかくて甘くて生で食べても大丈夫なトウモロコシという作物に、子供達も喜んで噛りつく。
実の皮が歯に挟まって大変なことになったが、満腹になるほどの食事は大人も子供も久し振りだった。
誰かが橘花を呼びに行ったと聞いたが、作物が実ったのにみんなで囲む飯には参加しなかったらしい。
昼間、利用してやると言っていた数人が集まって隅の方で話し合っている時に舌打ちが聞こえたので、内心「ご愁傷さま」とペーターは嘲笑ってやった。酒でも飲ませて既成事実を作ってしまうつもりだったんだろう。
川に行くと言っていたらしいが、夜の森には誰も入りたがらない。獣や凶暴化したモンスターがいたりするからだ。
ペーターは鬼人族の血を引くため、夜目が利く。川まで降りていくのに何の恐怖も躊躇いもない。
角以外、容姿は人間族なのに暗闇で光を反射するその目が、村の一部の大人から怖がられてもいるため前髪で隠し、髪と同じ色の角も見えないように俯いていることが多かった。
妹の律は、肌以外の容姿は父親に似ているのに、目だけは人間族と同じで夜目が利かないので光らない。
綺麗な緑の瞳だねと近所からも言われることがあって、羨ましいと思ったこともある。
そんなことを思い出しながらペーターが川に辿り着くと、異様な光景があった。
赤い紐で木々を繋ぐように括りつけられた鈴が、周囲に張り巡らされていた。
篝火も番をしている者がいないのに、燃え続けている。
――リィン。
背後で鈴が鳴る音に振り返ると、いつの間にいたのか涎を垂らして牙をむいている一匹のレッサーウルフがいた。
気付かなければ後ろから襲われていただろう。その事実にゾッとした。
今まで人間族に角が生えた半分化け物扱いの自分は、森の夜に入っても襲われないのだと根拠のない自信があった。
それがどうだ。現実は今まで運が良かったのだと如実に証明している。
ペーターに噛みつこうとするも、レッサーウルフは見えない壁に阻まれる。
体当たりを繰り返すレッサーウルフに、リンリンと鳴る鈴。
怖くて一目散にその場を離れ、橘花の姿を探す。
川に沿って行けば、夜の明り取りのために多くの篝火に囲まれた大きな釜で晩酌してる姿があった。
ホッとする反面、呆れた。
側にいって話しかけた時、美味しそうなものを片手に持っていて釘づけになり、それを見抜かれて懸命にごまかして目をそらしたら、どこから出したのか、橘花が手に持ったからあげ串が三本に増えていた。
叩いて増やすビスケットの原理だ!
という昔、父親もしていたお菓子の増やし方の応用だと目を輝かせながら見ていたら、提案されたのがからあげ串を三本食べる代わりに風呂に入るというもの。
けして食べたいから話に乗ったわけじゃないと言い聞かせつつ、ペーターは了承した。
まず、かけ湯で粗方汚れを落としてから風呂に入れられた。
小さい頃、ペーターの額に角が生えてくる前。父親が衛生面がどうたらと説明しながら、風呂に入れてくれていたことを思い出す。
よくわからない説明だったが、それから三日おきくらいに強制的に風呂で体を洗われていた。
川で汚れを落とすくらいで風呂に入るなんてここ五年の間していなかったからか、湯船につかることが気持ちよくてペーターはつい気が緩んだ。
鬼人族について聞き出そうとしたら父親の話になって口が滑り、父親が角を折られた話に橘花が真剣な表情になって聞いてくるため、根負けして話した。
戦いもせずに要求されるままにした父親をなじる言葉も含んでいた。
【ミブロ】は悪者をやっつける正義の味方。
五年前の厄災が訪れる前、父親や母親にせびって聞いていた寝物語。
弱気を助け、強きを挫き、罪の償いを拒否する者に等しく断罪を与える。
氷の大地に住む大猿も、地底の毒霧を吐く大蛇も、炎を吐き出す山のように大きな竜さえ【ミブロ】は恐れはしない。
立ち塞がる敵は、必ず倒し勝利を手にする。
そのお伽噺のような話の通りなら、村人の所業は許されることではないはずだ。
けれど、これで村人たちが殺されてもしかたないよな、とペーターは心のどこかで思っていた。
なのに。
「……ペーター、守り方ってのは色々あってな」
「あんなの守り方なんかじゃねーよ!」
父親の行動を肯定されて怒りが再燃する。
橘花のもとから走り去る時、何か声をかけられたが聞こえないふりをした。
怒りのまま、勢いで村まで駆け戻る。森に入る時、あのレッサーウルフがいるかもしれないなどと頭の隅にもなかった。
まだお祭り騒ぎを続けている村の輪には入らず、まっすぐ家に帰ると寝床に潜り込んで使い古しの布団に包まる。
何でこんな村を守る必要があった?
愛想笑いを浮かべて薬をもらいながらも、容姿や強い力に化け物呼ばわりする奴らはいなくならなかった。
けれど、ここまで橘花に怒りを露わにした理由は、ペーターもわかっていた。
世話好きなのか、ペーターの前に躊躇いもなく屈んで服の皺を伸ばして着崩れてる部分を整えたり、まるで親みたいなことをされたせいだ。
橘花が屈んでいる時に見た篝火に照らされた銀の髪の頭部が、一瞬琥珀色に見えた。
見間違いだ。
わかっている。
でも、父親から諭されたように聞こえた。
今年で十二歳を迎えるペーターにとって、五年前の父親の姿はもううろ覚えだ。
怒った顔も笑った顔も、声もおぼろげになって、思い出そうとしても霧がかかったようにはっきりとした顔が思い出せない。
もう特徴的な部分だけの、断片的な思い出になっていた。
病が村に一気に広がった時、村人が慌てふためき手立てが見つからずに絶望に俯く姿を見て、父親を見捨てたから天罰が下ったんだと心のどこかで嗤っていた。
それをおぼろげな記憶の父親に叱られた気がしただけだ。
それでも。
「父ちゃんはもっと男らしかったし、髪も短かったんだ! バカじゃねーの、おれっ……」
うろ覚えの幻影に言い訳で呟いた声は、震えていた。
† † † † † †
翌朝、ペーターが目覚めると額に甲虫が乗っていた。
「んぎゃー!」とビビりまくりながら、はがした甲虫を外へ投げ捨てた。甲虫の足に絡まった髪が何本か一緒に抜けたが気にしてられない。
枕元で蟻が二匹死んでたのを払い落とし、山羊を世話してからもらっておいたトウモロコシ三本分の粒を潰して煮た粥もどきを持って母親と妹のところへ行く。
いつもと違う甘い汁に母親は材料を街から買ってきたのかと心配したが、妹の律は美味しいと喜んでくれた。
ほとんど残してしまう粥や汁を今日は甘味のお陰か二人とも飲んでくれたので、少しだけホッとする。
朝にやらなければならないことが終わり、朝日が昇る頃にザザンから橘花を呼んできてほしいと頼まれ、川辺に降りた。
橘花がいることを示すように、鈴や篝火はまだあった。
昨日、風呂に入れられた辺りに行ってみると、橘花が座り込んで何かしているのが見えた。
「よう。起きてたか、あんた」
呼びかけて振り返った橘花の顔色が悪いのが、鬼人族特有の灰色っぽい肌色からもわかる。
思わず心配する言葉が口をついて出た。
すると「わざとだ」と言いつつ、橘花は瓶をどこからか取り出した。
やっぱり似てる。父親が幼いペーターに披露していた、叩くと増えるビスケットの魔法。
「なぁ、昨日から思ってたけど、それどこから出してるんだ?」
「手品」
聞いてみても父親といい橘花といい、ちゃんと教えてはくれないらしい。
そのことにムッとしながらも、ペーターは村長の遣いで来たことを告げる。
橘花は疲れた顔のまま、朝ごはんがまだだと言って取り出した握り飯。
これもよく父親が作ってた。橘花が手に持っている綺麗な三角形ではなく、少し丸みを帯びた不格好なものだったが。
食べていいというので、朝ごはんを食べてなかったペーターはひとつもらうことにした。もちろん、大人の味だという梅を。
パクッと一口で半分食べた時に衝撃が走った。
不味いわけではなかったが、酸っぱくて顔が歪む。食べ物粗末にするのは駄目、という教えはしっかり染みついているので吐き出しはしない。
橘花に「無理なら交換しようか」と言われて「食える」と意地になった。
――父ちゃん、大人の味って酸っぱいんだね。
という感想を抱きながら、今度食べる機会があったら絶対に選ばないと村長の家に向かう道すがらペーターは決意していた。
その後、村長の家で村の現状とその対策を乞うザザンに、橘花の答えは芳しいものではなかった。
ただ、お手上げだと村から出て行くのではなく、尽力すると申し出たことにペーターは驚いていた。
鬼人族はお人好しなのか、と。
死人すらも出している病など、誰も関わりたくないと思っているはずなのに。
すぐに解決策が出てくると思っていた一部の者は橘花に不満をぶつけていたが、橘花が村に来て一日も経っていないのにあまりに身勝手すぎるだろう。
そんな話し合いと言えない集まりから解放されて、川の方角へ戻る橘花の後ろをついていく。何度も額を押さえる仕草に、具合が悪そうに見える。
朝の姿を見ているペーターは、橘花が夜も寝ずに対策を考えていたと推測していた。
「だから言っただろ。もう諦めて出て行けよ。あんたまでこの村に付き合うことねーって……あーもう、うぜぇな」
橘花ひとりで考えてる姿に、憎まれ口を叩く。
村の連中は自分達の問題なのに他力本願で助かろうとしていて、村と関係ない橘花の悩む姿に無理難題を押しつけられて、父親も苦笑しながら対処していた姿を思い出して苛立ちを募らせる。
寄ってくる蝶を追い払いながら橘花の後ろをついて歩いていると、橘花が振り返った。
「ちょっと待て。蝶が、寄ってくる? 蝶だけか?」
「起きたら枕元に甲虫もいたけどな。あと蟻も登ってきてたり」
目覚めたら額に乗っていてビビって飛び起きたことを思い出し、気恥ずかしくて視線をそらす。
「ペーター、サンキュー!」
「ぎゃぁあっ、なんだいきなり。抱きつくなっ!」
とうとつに感極まってといったように橘花が抱きしめてきたので、心の準備ができてなかったペーターは狼狽えた。
よーしよしわっしゃっしゃ、とよくわからない掛け声と共に撫でられ硬直していると、「調べ物があるから、薬ができたら協力してくれよ」と言い残して川辺の方へ向かっていった橘花をポカンと見送る。
「……薬が、できる?」
じわじわと頭が理解してきた言葉の意味に、ペーターは慌てて後を追う。
森の中からも見えた川辺に着くと、さっそく薬を作り始めている橘花の後ろ姿に足が止まった。
透明な入れ物に入れ替えた液体が青く変色する。その変化を見つめながら入れ物を振って中の液体を回す。橘花の調合している姿が、父親が薬を調合をしていた姿に重なる。
ある日、へこへこして家から出てきた村人が離れたところで蔑みの目を向けているのを遠目で睨んでから、ペーターは家に帰ってきた。
薬師は立派な仕事なのだと幼くてもわかっていたし、それに対する父親への態度や悪口を言われるのは許せなかった。寛容に許す父親も。
『なんで父ちゃんをバケモノ呼ばわりするようなヤツらに、薬を作ってやるんだよ!?』
『いいか、ペーター。誰に頼られたからとか、仕方ないからとか言い訳になるだろう。これはな、父ちゃんがしたくてしてるんだ』
背中を向けたまま薬の調合をしながらそういった父親の言葉に、「父ちゃんの弱虫」と蔑んだことがあった。
それから剣士などに憧れを抱いて、五年前の事件をきっかけにその思いは強くなった。
でも、どうして剣を持つことを望んでいたのか、その根本の理由に気づかなかった。
(そっか、おれ。【ミブロ】と同じ鬼人族の父ちゃんを馬鹿にされて、それが嫌だから誰にも負けないくらい強くなってやろうって……。みんなを守れるように……そうすれば)
橘花の行動をお人好しとバカにしながら、ペーターが気にして苛ついていた理由。
本物の【ミブロ】なのに、父親と同じで温厚。文句の一つも言わずに、見知らぬ誰かに手を差し伸べる。
憧れと同じ高みへ行こうとして、剣だけに頼ろうとした自分を否定された気がしていた。
命を懸けて力だけでは駄目だと背中で語ってくれていた、父親の域に届きすらしていないのに。
橘花に苛立っていたのではなく、何もできない自分の無能さに憤っていたのだと。
「っ……父ちゃん、ごめん」
「ペーター、そこにいるか?」
「お、おう。いるぞっ」
呟いた言葉に反応されたと思って挙動不審になりながら、橘花に返事をする。
一様、会って間もない他人である橘花には見栄を張りたい年頃だ。
そのあと、感染していると告げられ、ペーターは薬を飲まされた。橘花の言葉に、半信半疑で飲んだ青い液体は美味しくない。
薬だと飲まずともわかるほど、酷い薬草の臭いがした。まぁ当たり前だ、薬なのだから。
薬ができたという急展開に村人たちも目を白黒させながら村長から言われたとはいえ、橘花の手伝いを申し出る人が出てきたのは意外だった。
洞窟にいる病人達の回復が確認されると、村人全員分の新しい服も配布された。無償で。
これはペーターも驚いた。
簡単な作りではあるが、自分達が着ている服の布よりも上物が使われているのは明らかだった。
本当に無償かと疑いたくなったが、病を根絶するために今日明日に村で代わりの新しい服を用意できるのかと聞かれたら無理だ。なので、今回だけだが、という橘花の言葉に甘えた。
綺麗な端切れが入っている服は、女性がこぞって取り合っていた。病後なのに元気だと、村の男全員が呆れるて笑うほど。
その夜は、新しい服に食事も全員が満足に食べられる量があり、心配事が解消されて村全体が浮かれた。
病を根絶するために言われた仕事は残っていて、朝になってから行うことになっているが、誰もそれを苦痛には思っていない。
全員が心に休息を齎した橘花に感謝し始めていた。
今日、ペーターの剣で戦いたいという漠然とした目標は昨日までとガラリと変わり、明確な目標に変わっていた。
――橘花みたいな男になりたい。
最初に会った時の剣を抜いた雰囲気と凛とした姿も、村人のためひた向きに悩み薬を作る背中も、ペーターの中で父親と同じくらい目指したい将来の自分の姿となっていた。
どうすればいいか、考えるまでもなく単純明快な答えが出て、夕方にさしかかる頃に橘花のいる川辺に降りてくると、見たことのないテントが出来ていた。
ペーターは新しく作ったんだろうと当たりをつけ、中をのぞくとやはり橘花が眠っており、手の届く側には刀を置いていた。
一見、女性にも見える中世的な顔立ちの中に、凛々しさが滲んでいる。
(この人から剣を習いたい)
剣だけではない。
ついていけば、薬草についての知識も学べる。父親と同じ薬師になることもできる。
もし叶うなら【ミブロ】の一員となり、橘花と肩を並べたい。
食べ物が満足に行き渡らない長期的な時期が育ちざかりのペーターの体を小さく見せているが、橘花についていけないほどではない。
(数日は村にいてくれるはずだから、その間に剣を教えてもらおう。そして、一緒に連れて行ってくれるよう頼んでみよう)
母親を説得し、村長であるザザンに村を出る許しを請う。それをする時間はあるはずだと、高をくくっていた。
橘花が起きたら何から聞こうか考えている内に目覚めたらしく、中に入っていいというのでテントの中を汚さないように土を払い、靴を脱いだ。これも父親から鬼人族の習慣で教えてもらったことだと、後で気づくことだが。
まず一番に聞きたかった薬のことを聞いてみる。薬師は自分の商売の命でもある薬の調合のことは、絶対に教えないと聞いていた。
『万能草』すら効かない病気の特効薬となれば尚更かもしれないが、ダメ元でと思い切って聞いてみた。
が、あっさり橘花は教えてくれた。
同じ病を治したことがある仲間がいて、しかもそれが【ミブロ】の副官――侍――だというのにも驚いたが、橘花が明日にも発ってしまうことを知りペーターは焦った。
母親や妹を置いていくことになるのは覚悟していたが、それが明日になるかもしれないなどと思っていなかった。
まだ病後で満足に家事や家畜の世話もできるか心配が残る。
でも、今を逃せばもうチャンスはなくなってしまう。
ペーターの中で、生まれて初めて一代決心したことだった。
「なぁ、おれに剣を教えてくれないか」
「今の流れでどうしてそうなる」
「言っただろ、おれは剣で戦える男になるって。戦えるようになりたいんだ!」
「強さに憧れるのはいいけどな、お前には早いっての」
「とにかく、あんたが明日発つならおれもついていく!」
「はぁっ!?」
橘花が驚いて体を半分起こした。突然のことに驚くのは無理もない。
母親や妹のことも指摘されたが、ペーターは何とか食い下がる。何が何でも剣を教えてもらおうと必死だ。
「わかった、わかった。ただし、約束しろ。私が教える剣術は自衛以外には決して使わないと」
「や、約束するっ!」
自分の真剣な願いが聞き届けられたと、ペーターはホッとした。
ふと、橘花を見るとその手には光沢を放つ黒漆塗りの柄と鞘の懐刀が握られていた。
「銘行光。これがお前を守ってくれる懐刀だ」
「……めいゆきみつ」
短刀、懐刀……それはペーターも憧れていた。
幼い時に父親の懐刀に悪戯をして手を切り、ものすごく怒られたことがある。欲しいと強請った記憶も。
ペーターが成人したら渡すと約束された父親の懐刀は、村が襲撃された時に鉄の襲撃者たちに押収されてしまってもうない。
鬼人族では大人と認める儀式で、親や師から一振りの懐刀が渡されると言われている。
それがもらえなければ、大人ではない。
(大人と認めてもらえる。橘花から!)
そのことに高揚し、目が輝く。
橘花に言われた儀式もよく知らなかったが、簡略式なのだろうとペーターは真似をした。
「復唱しろ、金打」
「き、きんちょう!」
手前に持ち刀を立て、刀を少し引きあげ戻す時に音をたてる。
カチリ、カチン――と互いの鍔が鳴り合う。
ただ簡単な作法に見えたが橘花の真剣さから、この行為に深い意味があることを感じた。
(これで橘花に認めてもらえた。大人って、認めてもらえた!)
嬉しさで涙が出そうになった。
けれど、まだ安心するのは早かったりする。
「私が基礎を教えるのは、出立する明日の朝まで」という期限を決められ、顔を青くする間もなくペーターは必死に食いついた。
いきなり刀を振るところではなく、扱い方と手入れの仕方からだったのは拍子抜けだった。
しかし、「侍の魂である刀を錆びさせる者は、その程度の者だ」と言われれば、毎日の手入れを欠かさないようにしなければとペーターの気持ちも引き締まる。橘花の言葉は何かの受け売りだが、ペーターは知らないだろう。
振り方、受け流し方、基礎を徹底的に叩き込まれてペーターがへとへとになって膝をついた時、橘花がそろそろ寝るとテントに戻ってしまった。
朝まで、まだ時間がある。基礎の基礎だけしか教わっていない、と意地になってテントへ追って入ったペーターは、寝ぼけた橘花に抱き込まれて強制的に三十分休憩になるのだが。
抱き込まれて強制的に休憩になり、寝ぼけながらも再度なぜ剣を習いたいのか橘花が聞いてきた。
隠す必要もないとペーターが村の大人たちの文句を言った時、「考え方一つだな。お前が変われば世界も変わるさ」と橘花は言った。
「そんなこと誰も教えてくれなかった」と反発すれば、「まだお前は子供だからなー。好きも嫌いもあっての世界だぞー」と優しく頭を撫でられながら言い聞かされて、そのままペーターもうとうとして本気で寝てしまいそうになり、慌てて橘花を起こす。
なんとか朝方に技をひとつ教えてもらうまでになり、ペーターは涙目になりながら「ありがとうございます、師匠!」と言ったら、橘花がちょうど休憩がてら飲んでいた麦茶を盛大に吹き出していた。
橘花は師匠と呼ばれることが好きではないみたいだが、ペーターにとって剣の師匠は橘花なのだから強く駄目とは言えないのだろう。
橘花が村を去ってから、何度か他の大人にからかわれることもあった。
腰の物は鈍らか、剣をもらったならそれで獲物でも獲ってこいと。
以前のペーターなら内心に暗い怒りを覚えていたが、今ではそんなことは考えない。
心を静めろ、呼吸を乱すな。剣筋がぶれる。
いつ刀を抜く瞬間が来るかもしれないのに、自ら隙を作ってどうする。
その言葉を胸に、内なる怒りをやり過ごして対応する。すると、大人たちの方が戸惑うのだ。
そんな周囲の反応がおかしくて、今までそれに過剰反応していた自分もおかしくて、ペーターは意地を張るのをやめた。
† † † † † †
今でも大人たちに「折角の得物を使わないなんて」と言われることもある。
確かに最初はペーターも誘惑に負けそうになった。切れ味を試してみたいと。
でも、橘花と約束をした。
この刀は、自衛のための懐刀なのだ。
手入れをしていた時、その姿を見た母親から「やっぱり父ちゃんの子だね」と泣かれた。
橘花から大人の認定を受けたことには何も言わなかったが、少し昔のことを教えてもらった。
実は、村長のザザンと冒険者仲間だったこと。
母親は射手で、父親が前衛の侍だったことも。
もうひとり仲間がいて、今は別な場所でギルドマスターをしていること。
父親は母親がペーターを身籠ったことで、人間族の村に腰を落ち着けることを決めたのだという。
種族の違う自分も村に置いてもらうために、刀を捨てて薬師となった。身籠った母親を異種族である鬼人族の村に連れ帰って不安にさせたくなかったらしい。
ちょうどザザンも怪我をして手当してくれた村長の娘といい感じになったので、定住を決めたという昔話。
「でもね、あなたが産まれるって時にあの人薬師の仕事が入っちゃって、出産に立ち会えなかったの。で、私が名前をつけたあとに帰ってきて、『次の子の名前は絶対オレがつける!』って泣いて悔しがってたのよ。笑っちゃった」
「そんなことがあったんだ」
「懐刀を渡す歳になったら剣を教えたいといっていたけど、侍の世界は厳しいから村で生きていくなら薬師の道の方がいいと思ったのね」
「何で今まで父ちゃんが侍だったって教えてくれなかったの?」
「父ちゃんがね、まだ教えられないって言ってたわ。憧れや格好かたちだけで、その道に進もうとするあなたを見て駄目だと判断したの。その判断は正しかったと母ちゃんも思ってる」
「じゃあ、今は……」
「これは母ちゃんの判断だけど、あなた……その刀は絶対、血に染めないような気がしてね。それに、【ミブロ】の橘花さんがあなたにそれを託したのなら、大丈夫だと思ったの」
一度、手元の懐刀に目をやってからペーターは、再び母親を見た。決意を込めた瞳で。
「しないよ、絶対。師匠と約束したんだ」
ペーターを取り巻く理不尽な世界が、好きも嫌いもあっての世界になって、許せるようになった気がする。
受け入れ、受け入れられる心地よい世界には程遠いかもしれないが、父親がそうして生きようとした世界に生きれる道筋が見えてきた。
「これって、ちょっとだけ世界変わったかな、師匠」
朝焼けの中、川辺でひとり小さな報告を終えて汲んだ水を村まで運びに戻る。
大切に懐刀を携えて。
――それは、惨劇の宴が始まる数時間前のこと。
橘花が植えたトウモロコシの品種はスイートコーンです。生で食べてもマジ美味しい。甘い。もっと食える。……農家さんから頂いたトウモロコシの実体験。
ペーターの視点を通して、村の中身と彼の家族のお話も混ぜてみました。
重複部分もあるため粗方削ったり。