第121話
橘花が“犯罪者として捕らえられた”という噂は、風よりも早く街に広まった。
王都の使者を名乗る者たちが次々とアルミルへ入り、ギルドに顔を出しては権力をちらつかせながら聞き込みをする。
「鬼人族の男と親しくしていた者はいないか!」
「茶々という女の居場所を知っている者は!?」
そのたび、街の空気は冷たく凍った。
だが、誰一人として口を開く者はいない。
露店の婆さんは知らぬ顔で野菜を並べ、宿屋の主は「聞いたこともない」と肩をすくめた。
ギルドの若い受付嬢でさえ、「冒険者の個人情報は守秘義務です」と毅然と言い放った。
――アルミル全体が、ひとつの意思を持っていた。
それは、怒りでも恐れでもない。
ただ、恩を受けた者としての誇りだった。
あの日、疫病が蔓延したとき。
誰もが怯え、互いを疑い、葬式すらできぬまま家に閉じこもっていた。
そんな中、たったひとり街に出て声を上げたのが、橘花だった。
『感染を広げない方法はある!』
種族も違い、この街に住む理由すらない男が、命を懸けて走り回った。
彼は不眠不休で、現場に何度も足を踏み入れた。
ようやく終息したあと、亡くなった者の家族も近寄れぬ墓へ、ひとり花を手向ける姿を、誰もが見ていた。
その背に、嘘はなかった。
だから、誰も信じなかった。
「橘花が罪を犯した」などという話を。
王都の使者たちは苛立ちを募らせた。
どれだけ脅しても、街の誰も口を割らない。
「この街の者は愚かだ」と吐き捨てて去っていく貴族の馬車を、誰も見送らなかった。
ただ、沈黙だけが街を覆っていた。
それは恐れからではなく――「彼を裏切らない」という、静かで強い意志の証だった。
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昼の光が山の稜線をかすめ、アルミルの石畳を白く照らしていた。
森から吹き抜ける風が、乾いた土と果実の香りを運ぶ。
街は活気づいていた。行商人の声、鍛冶屋の槌音、子供たちの笑い声。
そのざわめきの中を、ウェンツたちはギルドのクエスト帰りの体で歩いていく。
ただ、全員さっきから背中を刺すような気配を感じていた。
「……ロイ。つけられてる」
小声で言えば、ロイヤードも目線だけで応じた。
「気づいてる。三人。右の屋根と、路地の影に一人ずつ」
簡易マップを見ると、それぞれ赤いマークが静かに追従してきている。
ウェンツが何でもない顔で果物屋の店先に寄り、青い果実を一つ手に取った。
「……祭りでもないのに、やけに見張りが多い街だな」
その言葉に、背後のソータが静かに息を吐く。
「貴族の命令で動いてる連中かもしれませんね。茶々さん狙いで」
――やっぱり来たか。
その感想は、一度街で買い物しているのを見られた時から考えれば、至極当然だった。怪しんだ者にはそれなりの監視はするだろうと。
ウェンツは果実を店主に渡し、軽く代金を払った。
「路地裏に行こう。開けた場所はまずい」
四人は人混みの途切れる細い路地へと入る。
アルミルの街は坂道や石段が入り組み、少し歩けば、建物の影が戦場にも逃げ場にもなる。
石段を三段ほど降りたところで、ウェンツが振り返る。
背後の路地から、黒衣の男たち三人が現れた。
無表情なその目には、ためらいも感情もない。
「……誰に雇われた?」
問うたエレンの声に返事はなく、代わりに刃が光る。
最初の一撃が風を裂いた。
ロイヤードが反射的に前に出て、大剣でそれを受け止める。
火花。金属の悲鳴。
「……くそ、速ぇな!」
一呼吸遅れ、後ろでソータが詠唱を始める。杖先から光が走り、路地に幻影を生む。
まるで四人が八人に見える蜃気楼のような魔法。
敵の動きが一瞬鈍った、その隙をウェンツが突いた。
「甘いっ!」
剣が男の腕を弾き、血飛沫が壁を染める。
もう一人が横から斬りかかるが、エレンが跳ねてかわし、そのまま足を絡めて転倒させた。
「ソータ、後ろ!」
風が唸る。ロイヤードの声に答える代わりにソータの詠唱が完成し、突風が路地を吹き抜ける。
砂塵と紙くずが巻き上がり、視界が奪われる中で、
ウェンツとロイヤードは二人の男を同時に叩き伏せた。
息が上がり、しばらくの沈黙。
風が止み、埃が落ち着く。
エレンが倒れた男の一人のマントをめくり上げ、腰の紋章を見た。
どこの貴族か知らないが、証拠として紋章を剥ぎ取っておく。
「……やっぱり、こいつら“ただの尾行者”じゃねえな」
ウェンツが眉をひそめ、剣を納めた。
「貴族が焦ってる証拠だ。橘花さんを“罪人”に仕立ててるのは、この連中の仕業だろう」
ロイヤードが息を吐く。
「なら、こっちはこっちで手を打たなきゃな。……街を守るなら、ここが踏ん張りどころだ」
静かな街角。
遠くで市場の喧騒が戻り、まるで何事もなかったように鳥が鳴いた。
だが、彼らは知っていた。これは始まりにすぎない。
王都から伸びる長い影が、確実にアルミルの心臓へと迫ってきていた。




