第120話
昼下がりのアルミルの街は、秋風に乗って乾いた木の香りが漂っていた。
森と山に囲まれた盆地の街は、午後になると光が斜めに差し込み、石畳を金色に染め上げる。
「パンよし、乾燥肉よし、保存スープよし……っと」
荷物の確認をしていたウェンツが、店先で大きく伸びをした。
隣ではロイヤードが、麻袋を肩に担ぎながら苦笑する。
「茶々さんの外出が難しい分、俺らが足動かすしかねぇしな。買い出し班は体力勝負だ」
「文句言うなよ。あの人、下手に外出たら街が一騒ぎになる」
「……ま、あれは否定できねぇ」
二人は思わず笑った。茶々が出歩けば、どこの店でも“橘花の奥さん”扱い。
あれ以来、茶々本人が恥ずかしさのあまり外出禁止を自分に言い渡したのだ。
だが、その穏やかな空気は唐突に裂けた。
「やぁ、いい買いっぷりだね」
声をかけてきたのは、王都風の上質な旅装をした男二人。
一人は白の外套に金の飾り紐、もう一人は眼鏡をかけた文官風だ。
笑顔は柔らかいが、どこか底冷えするような目をしている。
「王都から来たんだ。ちょっと人を探しててね」
「茶々って名前の女性を知らないかな? 鬼人族で、着物姿が印象的な……」
一瞬、ウェンツとロイヤードの間に沈黙が走る。
しかし、ウェンツは眉をひそめて首をかしげた。
「んー、知りませんね。鬼人族って、冒険者には男性はいたけど?」
「そうそう。俺たちも滞在長いけど、名前くらいは聞いたことあるかもな?」
ロイヤードも軽口を合わせ、わざと気の抜けた笑みを浮かべる。
二人組のうち眼鏡の方が、ちらりと彼らの荷物に目をやった。
「それにしても、随分と多い買い物だね。……二人分にしては」
途端、空気がぴんと張り詰める。
遠くで鳥の鳴き声が途切れた。
だがウェンツは笑顔を崩さず、袋を軽く揺らしてみせた。
「うちは男四人のパーティーなんです。冒険者って体使うものですから、これくらいすぐなくなっちゃうんですよ」
「ふぅん……なるほどね」
「それにしては女物の日用品まであるみたいだけど?」
探りを入れるような視線。眼鏡の男の手がゆっくり腰の剣に伸びかけた、その瞬間。
「――あ、それ、俺の彼女のヤツな」
ロイヤードが不意に割って入り、軽く笑って麻袋の口から見えていた中身を指した。
「前に買ってったのが、違うって文句言われてさ、結局買い直し。まったく、女ってこだわるよなー。見た目ほぼ同じでも、“これじゃない”って怒られんだぜ?」
「そりゃ大変だ。うちの嫁もそんな感じだよ」
ウェンツが吹き出し、店主まで肩をすくめて笑う。
一瞬のうちに、空気が和んだ。
探っていた二人も、わずかに眉を緩める。
「そうか、彼女の……。いや、詮索して悪かったね」
「いえいえ、物騒な話もありますしねぇ」
ウェンツが軽く首を横に振る。
男たちは礼を残して去っていったが、その背中を見送りながらロイヤードがぼそりと呟いた。
「……“彼女の”なんて言う日が来るとは思わなかったぜ」
「うまい口実だったよ。あとで茶々さんに報告したら、多分笑い転げるな」
だが笑い声の奥に、二人の瞳は鋭い光を宿していた。
王都の影が、確実にアルミルへと伸びてきている。
油断すれば、一瞬で全員が呑まれる――その実感が、じわりと背筋を這い上がってきていた。
⸻
夜明け前の冷たい空気を切り裂くように、ギルド宿舎の扉が叩かれた。
ドン、ドン――重い音に、最初に起きたのはウェンツだった。
寝癖のまま外に出ると、顔を青ざめさせた見張りが息を切らしている。
「た、たいへんです! 王都からの布告が……!」
掲げられていたのは、濃紺の封蝋を押された公式文書。
開封すると、そこには「鬼人族・橘花、国家反逆罪・密輸共謀の嫌疑あり」の文字。
ウェンツが目を細める。
「……やっぱり、こう来たか」
その報せは、翌日あっという間に街を駆け抜けた。
“元冒険者で、ギルドにも顔の利く橘花が裏切った”。
刺激的な言葉だけが、一人歩きしていく。
だが、街の反応は思いのほか静かだった。
噂を聞きつけた風に外部の役人や貴族の使者が押しかけてきても、住民たちは、口を閉ざして首を横に振るだけだった。
「知らねえな。あの銀髪の兄ちゃんなら、前に疫病のとき薬をくれた人だ」
「悪人があんな優しい顔するかね。人間族のお偉いさん連中よりよっぽど人間らしかったよ」
店の店主も、宿屋の婆さんも、誰一人として協力しようとはしなかった。
ギルドに守られている茶々たちは、その報告を宿舎の中でエレンやソータから聞いていた。
リュートが拳を握る。
「ご主人様がそんなこと、するわけない!」
「もちろんです」
茶々が静かに言った。
「でも、信じてくれる人が、こんなにたくさんいる……」
外の喧騒を耳で聞きながら、茶々はふと笑った。
「やっぱり橘花さん、すごいわね」
茶々の言葉に、エレンが頷く。
「正直、口で説明するより、この街の人たちが証明してくれてる」
「橘花さん、無鉄砲な感じもしたけど信頼を積み重ねてたんだな。さすが推し!」
ソータが疫病騒ぎのことを思い出しながら呟いた。
茶々の胸の中で、何かが静かに熱を帯びた。
話を聞いただけではあるが、疫病に怯える人々に手を差し伸べる橘花。
その姿が、想像するだけで脳裏にくっきりと浮かぶ。
(そうなのよね。橘花さん、考えるより早く体が動いちゃう人だから、見てる人には偽りではないとわかる)
外では、貴族の使者を名乗る者たちが苛立ち混じりに怒鳴っていた。
「この街の者はなぜ非協力的なのだ!」
「橘花の関係者を差し出せ! 命令だぞ!」
だが、返ってくるのは冷ややかな沈黙。
アルミルの空には、柔らかい日差しがゆっくりと滲み始めていた。
その柔らかな光を浴びながら、茶々は小さく呟いた。
「橘花さん……どんなに遠くにいても、あなたの想いは、ちゃんと届いていますよ」
茶々の声は、まるで朝露のように澄んで、街のざわめきに溶けていった。
昼下がりのアルミル冒険者ギルド・宿舎。
緊急封書が届いたと聞いて、職員から受け取ったロイヤードが皆が見ている机の上で封を切った。
「……“橘花、王都の地下牢に収監”。嫌疑は――“魔導増幅炉のコア”の私的利用、だと?」
読み上げた瞬間、空気が凍る。
だが一拍置き、その場の全員が同時に「は?」と声を揃えた。
「魔導増幅炉のコア……って、あの、魔法使い垂涎の装置ですよね?」
ウェンツが確認するように言う。
ロイヤードは苦い顔で頷いた。
「イベントですごい集めてた魔法使いギルドが、スレッドに話題で上がってたけど……橘花さん、鬼人族だぞ?」
茶々がゆっくりと首を傾げる。
「鬼人族の設定変わった?」
「いえ、初期から一貫して基本は変わってないです」
茶々の疑問にソータが答えた。
エレンが書類を受け取り、文面を確認する。
「つまり、“使おうとした”というだけで嘘。……完全に冤罪ですね」
全員が顔を見合わせる。
その目には、怒りよりもむしろ呆れがあった。
「よくそんな穴だらけの筋書きで逮捕できたな」
ロイヤードが肩を竦める。ウェンツも皮肉っぽく笑った。
「たぶん、誰かが“鬼人族=危険な種族”って偏見に乗せたんでしょうね」
茶々は封書を見つめながら、小さく息を吐いた。
「橘花さんが黙って捕まってるのは……たぶん、ガンジさんが人質か、あるいは――」
「放っといても相手が勝手に瓦解するから、ですかね?」
ウェンツの言葉に、全員の視線が彼に向く。
「橘花さんのことだし、状況を利用して“根っこ”をあぶり出す気なんじゃないかって」
その推測に、皆が妙に納得してしまう。
「……あの人、捕まってるっていうより、現場調査してそうだな」ロイヤードが苦笑する。
「牢の中で出たら食べたいものランキング作ってそう」エレンがさらりと付け足した。
「それはありそうだわ」茶々が吹き出す。
笑いながらも、胸の奥がじんと温かくなる。
橘花が築いてきた信頼――それが、街の人々にも確かに伝わっている。
ギルドにも、街の子どもたちにも。
「鬼人族は危険だ」と言われても、誰一人、橘花を疑う者はいなかった。
「……やっぱり、橘花さんってすごいわね」
茶々はぽつりと呟く。
尊敬という言葉より、もっと深い――“誇り”のような響きを持って。
その横でウェンツが頭をかく。
「でも……楽しんでる可能性、ありますよね」
「「「ある」」」
全員が即答した。
「牢の中でにやにやしてる姿が、目に浮かぶ」
「やめて、想像できるのが腹立つ」
「でも、ちょっと安心しますね」
笑い声がこぼれた。
不安も緊張もあったが、それ以上に、確かな信頼がそこにあった。




