第119話
穏やかで賑やかな日々が、もう少し続くと思っていた。
だがある朝、ギルドの情報員が駆け込んできた。
「街の外から来た連中が、茶々さんたちを嗅ぎ回ってる」と。
冒険者ギルドの受付奥にある小部屋で、その報告を聞いたウェンツたちの表情が引き締まる。
今わかっていることを全て聞くと、すぐに茶々たちのいる部屋へ向かった。
「貴族筋の捜索らしい。どこの家の命令かは伏せられてるが、時期的にも疑ってくれと言っているのと同じだな」
「問われた住民が口を割らないのが救いだけれど、おそらく時間の問題でしょう。金をちらつかせたり、身の危険を感じれば黙っていることは難しいですね」
ロイヤードが低く言い、ウェンツが言葉を引き継ぎ、状況を説明する。
その場にいた茶々は、手を膝の上で組みながら静かに頷いた。
心臓の鼓動が、いつもより少し早い。
「……橘花さんの懸念が当たった、ってことか」
ロイヤードが呟く。
ウェンツは眉をひそめ、少し考えてから言った。
「しばらく、茶々さんたちは街に出ないでください。ギルド宿舎に移動します。あそこなら、さすがに貴族でも下手な真似はできません」
ギルド宿舎――治安を担うギルドが、泊まる許可を出している宿舎だ。
許可なく探りを入れれば、ギルドへの信用否定とみなされる。
それは貴族にとっても致命的な汚点となる。
つまり、そこだけは“安全圏”だった。
茶々は小さく息をつき、深く頭を下げようとする。
「面倒を……かけてしまって」
その言葉を最後まで言わせなかったのは、ウェンツだった。
「――やめてください」
静かに、けれど強く。
「僕たちが橘花さんに助けられたのって、めちゃくちゃ面倒な時だったんですよ」
茶々が目を瞬かせる。
ウェンツは、少し遠くを見るように語り出した。
「僕たち、何も知らない未成年で……誰にも頼れなくて、騙されて悪事の片棒を担がされた時があるんです。下手すれば、一生、後悔する出来事でした。
それなのに後始末を任された橘花さんは、“面倒くさい”とか一言も言わなかった。当然のように助けて、当然のようにご飯を食べさせてくれて、当然のように叱って……笑ってくれたんです」
イサミが横で静かに頷き、リュートは主人の話をよく聞こうと耳をピンと立てる。
「だから、これは恩返しなんです」
ウェンツが微笑む。
「橘花さんが守ろうとした人を、今度は僕たちが守る番。――だから、茶々さんは気楽にしててください」
その言葉に、茶々は息を飲んだ。
胸の奥に温かいものが広がり、涙が込み上げる。
けれど彼女は、それをぐっと堪えた。
「……ありがとう」
それだけ言って、茶々は静かに微笑んだ。
窓の外では、街の夕陽がゆっくりと沈んでいく。
遠くで鐘が鳴る音がした。
その音が、まるで次の嵐の前触れのように、耳の奥に残った。
⸻
夜の帳がアルミルの街を包むころ、ギルド宿舎の灯がひとつ、またひとつと消えていった。
外では、衛兵の松明が街道を照らしている。
雨の前のような湿った風が、窓の隙間から入り込んだ。
茶々は寝台の上で、細い布団を整えながら、じっと天井を見上げていた。
昼間のウェンツの言葉が、まだ耳の奥で響いている。
ーー気楽にしててください。
あの優しい声を思い出すと、少しだけ心が温かくなる。
けれど同時に、胸の奥がきゅっと痛んだ。
(本当は、私なんかのために危険を冒してほしくないのに……)
そんな思いを抱えて、そっと目を閉じる。
その時、窓の外で気配がした。
茶々の耳がぴくりと動く。
誰かが宿舎の外壁に沿って歩いている。
足音は、二つ、三つ。
歩調を合わせて、周囲を巡回しているようだ。
(ギルドの警戒が強化された……? それとも――)
不安が胸を掠めたその時、コンコンと控えめなノック音。
「茶々さん、起きてますか?」
リュートの声だった。
扉を開けると、寝巻き姿のリュートがランプを手に立っていた。
狼耳を伏せて、申し訳なさそうな顔をしている。
「どうしたの、リュート?」
「……外、なんか変なんです。僕、巡回に行こうかと思って」
「だめよ」
すぐに茶々が首を振った。
「外はギルドの人に任せて。あなたが出たら、余計に誤解を招きます」
リュートは唇を噛み、しゅんと肩を落とした。
「……ご主人様がいたら、絶対、怒られますね」
小さな声でそう呟くリュート。
その言葉に、茶々の表情がふっと緩んだ。
「そうね。『また勝手に動くな』って、叱られるわね」
実装された初期、勝手に動くことがあったサポートAI。
その度に、橘花は「また勝手に動くな!」と慌ててリュートを拾いに行っていたことがあった。
二人の間に、小さな笑いが漏れる。
その声に、隣の部屋からイサミが顔を出した。
「リュート、夜更かし? 番犬する気?」
「僕は狼です!」
「はいはい、番“狼”ね。いいから寝なさい、明日も見張り交代あるんだから」
「うぅ……」
イサミに耳をつままれ、しょんぼり部屋に戻るリュート。
それを見て、茶々は静かに笑った。
ふと、窓の外に目をやる。
夜風がカーテンを揺らし、遠くの灯りがきらりと瞬いた。
――王都にいる橘花も、今頃こんな風に夜を過ごしているのだろうか。
胸の奥に浮かんだその問いに、自分でも苦笑が漏れた。
「橘花さん、早く帰ってきてくださいね……」
その囁きは、夜風に紛れて、静かな街に溶けていった。




