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Pandora Ark Online.  作者: ミッキー・ハウス
沈黙の盾編
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第118話

あのあと、リュートが「反省中」と称して茶々の部屋の前で正座してる姿と、イサミが「教育的指導」として説教中の場面を見た者たちは、一様に同じ言葉を発した。

「姉に怒られる弟の図だな」と。


そんなゴタゴタがあった翌日。

朝のアルミルは、今日も穏やかだった。山から吹き下ろす風が、通りの布屋の暖簾を軽く揺らす。

そんな中、茶々は布の買い足しと果実の調達のため、久々に街へ出ていた。


「……今日は人、少ないわね」


護衛として隣を歩くロイヤードが肩をすくめる。


「いや、みんな隠れて見てんだよ。奥さんが来るって噂、広まってるし」

「お、奥さん!? 誰の!?」

「誰って、そりゃ橘花さんの」


「……はぁぁぁ!?」


その瞬間、茶々の顔が真っ赤になった。

だが、抗議する間もなく、青果店の陽気な店主が手を振る。


「おう、先生の奥さんじゃねえか! 今日は何をお求めで?」


「せ、先生の奥さ……!? ち、違いま――」

「ほら、蜜たっぷりの林檎が今朝届いたんだ! 先生、お好きだったろ? おまけしとくよ!」

「いや、だから違っ……わぁぁ!? こんなに!?」


店主はどっさりと果実を籠に放り込み、笑顔で手を振った。


「橘花先生には、うちの子が世話になったんだ。感染騒ぎでただの熱だからって後回しにされた時、あの人、夜通し付き添ってくれてなぁ。礼を言っといてくれ!」


「え、いや……そ、そう? あ、ありがとうございます……」


店を出た時点で、茶々の腕には果実の山。


「……ロイヤードくん、これどうしよう」

「もらっとけば? 善意だし。果物食っとけば肌もツヤツヤだよ、奥さん」

「だから違うってば!!」


次に立ち寄ったのは日用品も扱うラークの店。

果実の入った重たい袋を持ったロイヤードをお供に木製のドアを開けた瞬間、店内に買い物に来ていた奥様方の視線が一斉にこちらを向いた。


「まぁ、橘花先生の奥様?」

「まぁまぁ! お綺麗だこと!」

「お二人ってどっちが先に告白したの?」

「先生、最初は冷たそうに見えるけど、実は情熱的なんでしょ?」


「ちょ、ちょっと待って!? どこからそんな話が!?」

「やだわぁ、先生と一緒の部屋に泊まってたって聞いたわよ?」

「泊まってたけど! 違う意味だからぁぁぁ!」


その間に、ラークが後ろからひょいと手を伸ばし、茶々の買い物籠に商品を追加してくる。


「ほれ、これも持ってけ。橘花の奥さんなら半額、いやタダでいいぜ」

「い、いやいや!? そんなわけには……!」

「遠慮すんな。橘花、疫病騒ぎでワタワタしてた街の医者たちよりも確実な方法で防いでくれたって聞いたぜ。街に住んでいる者たちの……まぁ、恩返しよ」


後ろでは奥様方が「やっぱり優しい方ねぇ」「奥さんが惚れるのも分かるわぁ」と勝手に盛り上がっている。

(惚れてません! 惚れてませんからぁぁぁ!)

茶々の心の叫びは、誰にも届かない。


買い物を終えた頃には、荷物は倍。

財布は開く隙もなく、どこも「お代は結構」と言われてしまった。


「……どーしよう、本当に橘花さんに怒られるわコレ」


茶々が頭を抱えると、隣のロイヤードが呑気に笑う。


「怒んないって。橘花さん、たぶん“世話になってるならありがたくもらっとけ”って言うタイプだし」

「……そうねぇ。でも、“こんなに目立ってどうする”って説教は確定ね」

「その時は、俺も一緒に頭下げてやるって。頭なら下げ慣れてる」

「なによそれ……もう、ほんとに……」


茶々は苦笑しながら、大きな果実籠を抱え直した。ロイヤードは、今度はラークの店で山盛りになった買い物袋を両手に持っている。

道の先では、子供たちが笑いながら手を振っている。


「おくさーん! 先生の分も食べてねー!」


――完全に定着していた。


ロイヤードは吹き出しながら言った。


「もう無理だわ、奥さん。諦めましょう」

「……誰が奥さんよ!」


頬を膨らませて言い返す茶々の声が、アルミルの穏やかな風に溶けていった。



一晩経って、怒りが収まりつつあるイサミが、ようやくご飯を食べに食堂へ来た。


さすが冒険者施設に併設された食堂は、昼近くでも座る席がないほど賑わっていた。

皿を運ぶ給仕たちの声と、冒険者たちの笑い声が入り混じり、戦場とはまるで違う種類の喧騒が広がっている。

こんなに“日常”が騒がしいのだと、イサミは思わず眉をひそめた。


その中で、先に来て食べていたエレンがこちらに気づき、軽く手を上げて手招きする。

イサミの耳と尻尾がピンと立った。これは反射だ。

長年の経験からくる警戒心――少し信用しただけでは、まだ抜けきれない。


だが、周囲を見渡せば、空席は一つもない。

ため息をひとつ吐いて、イサミはトレイを持ち上げると、仕方なくエレンの向かいの席へ座った。


「……ちゃんと寝られた?」


エレンが柔らかい笑みで声をかける。

イサミは少し間を置いてから、そっけなく答えた。


「寝た。……つもり」


返す言葉は短くても、口調の棘は少し丸くなった感じだ。

その微妙な変化に、エレンは何も言わず、ただ頷いてスープをすする。


イサミはスプーンを手に取り、無言で皿を見下ろす。

煮豆、肉と根菜のスープ。冒険者施設らしく、量も味も力強い。

しかし、どこか味が遠く感じた。食欲はあるのに、心が追いついていない。


昨日、ブチ切れて感情のままに怒鳴ることなど、本当に五年ぶりだった。

怒りが昇華したあとは、人間族の中でなんて失態を犯したのだと、自分の行動を恥じたのはリュートを正座させてガミガミ怒ったあと。

自分の警戒心が薄れていることに気づいたイサミは、この一週間で緩んだ気持ちと葛藤していた。

そんな変化があっても怒られた当のリュートは気にした様子はなく、すでに朝ごはんを食べて、元気に今日の予定通り行動している。


いつまでも手が止まっているイサミを見兼ねたエレンが口を開く。


「……リュートが、言ってたよ。“イサミが腹空かせて倒れたら、茶々さんが泣く”って」

「……アイツ、余計なことばっか言いやがって」


イサミが小さく唸る。けれど、口の端がかすかに動いた。

笑いかけるような、照れ隠しのような。


エレンはそれを見逃さず、にやりとする。


「ま、茶々さんが泣くのは本当のことだしね」

「……泣くだけじゃ済まない気がする」

「たしかに。それに、橘花さんも怒るね。『飯も食えねえ奴に刀は振れないぞ』って」


その言葉に、イサミのスプーンが止まる。

少しの間、俯いていたが、やがてスープの中の肉をひと切れ、静かに口へ運んだ。


咀嚼の音が、少しだけ心に戻ってきたリズムを作る。

その小さな音を聞きながら、エレンは微笑む。

イサミが何も言わずに食べ始めた――それだけで十分だった。


「……うるさいわね」


ようやく小さくぼやいたイサミに、エレンが軽く肩をすくめる。


「心配してるだけだよ。仲間だし」


短い沈黙。

やがてイサミの耳がぴくりと動き、照れたように尻尾の先が揺れた。


「……まぁ、そういうの、嫌いじゃ……ないわよ」


エレンがスプーンを止め、少し驚いたように目を丸くした。

それを見て、イサミはわざとそっぽを向く。


「……飯、冷めるわよ」


どちらからともなく、ふっと笑い声がこぼれた。

その瞬間だけ、食堂の喧騒が少し遠くに感じられた。


――ようやく、昨日までの“冷たい距離”が、一歩だけ近づいた気がした。

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