第117話
森と山に抱かれたアルミルの街は、王都の喧騒とは無縁の穏やかな時間を取り戻していた。
冒険者ギルドのロビーは、今日も変わらず活気ある声に包まれている。
昼下がりの光が木枠の窓から差し込み、食堂併設の大広間では、クエストから戻った冒険者たちが椅子を並べて休息を取っていた。
その一角、ロイヤードとウェンツの二人が湯気の立つマグを手にしている。エレンとソータは、ソーセージに似た軽食を頬張っていた。
向かいには茶々とリュート、そしてイサミの姿。
臨時パーティーという形での同居生活も、もう一週間が経った。
最初こそぎこちなかった面々も、今では自然と笑いが交わるようになっていた。
「今頃、橘花さん、王都に着いてっかな?」
ロイヤードがぼそりと呟く。
マグの中の緑茶を見つめながら、どこか寂しげだ。
「そうだね。馬車で一週間って言ってたし、ちょうど着く頃じゃない?」
ソータが軽く笑って返す。だがその笑みの奥には、心配の色が混じっていた。
茶々はそんな二人を見て、穏やかに微笑んだ。
彼女の隣では、リュートがこっそり菓子皿からクッキーを摘み、イサミの前に半分分けている。
「橘花さんなら、大丈夫です。どんな状況でも、あの人は冷静に動く。……それに、無茶はなさらないでしょう」
茶々が静かに言う。
「無茶はしない? あの人、無茶の最中にしか会ったことない」と、エレンが肩をすくめる。
「はは、それは言えてるな。橘花さん、あれでいて結構強引だからな」
ロイヤードが吹き出しながら、笑う。
茶々は苦笑を浮かべ、湯呑を口に運んだ。緑茶の香りがふわりと漂う。
「……強引でも、誰かを守るための強引さです。だから、私は信じています」
ウェンツたちが顔を見合わせ、揃って苦笑した。
「「「確かに!」」」
その頃、ギルドの奥では、給仕の職員が次々とお茶と軽食を運んでいた。
木製のトレイが重なる音、椅子を引く軋み、笑い声。
どこかの席では、カード遊びをする冒険者たちの歓声が上がる。
この街の日常が、確かに息をしていた。
そんな中、どこかから視線を感じる。
ちらりと振り返ると、窓口の女性職員たちがこちらを見ては、何やら顔を寄せ合っている。
(……やはり、異種族ゆえの偏見でしょうか)
ここ最近感じていた、鬼人族である自分に対する嫌悪の目線だと、茶々は勝手に納得していた。
だが今日は、ついに声をかけられた。
「茶々さん、少しお時間をいただけますか」
突然の呼び出しに、茶々は背筋を伸ばす。その場にいたウェンツがすぐに立ち上がった。
「行くなら、僕も行きますよ」
「お気持ちは嬉しいですが、ここは一人で大丈夫です」
そう言い残し、茶々は静かに頷いてロビーの端へ向かった。
待っていたのは、三人の女性職員。
どこかそわそわしていて、なぜか全員が微妙に目を泳がせている。
(来ましたね。さて、どんな手口で……)
覚悟を決めた茶々は、丁寧に一礼して声をかけた。
「お呼びと伺いました。お話とは――」
その瞬間、思いもよらぬ言葉が飛んだ。
「あ、あのっ! 橘花さんとはどうなってます!?」
「……はい?」
想定の真逆。
身構えていた防御壁が音を立てて崩れる。
「えっとえっと! 恋人なんですか!? それとも奥さん!? お二人って式の予定はもう――」
「ちょ、ちょっと矢継ぎ早に言わないの!」
慌てて止めに入るのは、一番年上らしいまとめ役の女性。
「この子たち、茶々さんと橘花さんの関係が気になって、ここ一週間ろくに眠れてないんですよ。業務に支障が出るレベルで……。なので、失礼を承知でお話を伺いたいと」
「ええっ!? 」
茶々の脳裏に、約一週間前の出来事が蘇る。
――あの日、街に着いた直後。
橘花をからかうつもりで「ご期待なさらず」などと、つい芝居じみた演技をしてしまったのだ。
当の本人が真っ赤になって狼狽するのが面白くて、ついノリノリで続けた結果……そのまま火消しをしていなかった。
(ま、まさか、ここまで尾を引くなんて!)
今さら冷や汗が背中を伝う。
「そ、そんな! 橘花さんとは仲間でして、恋仲とかでは――」
「でも、王都に行かれたあともお手紙とか……来てないんですか?」
「えっ、そ、それは……来てませんが……」
「ですよね!? もう、それだけで切ないですもんね!」
「え?」
話の方向が理解できない。
何故か職員たちが勝手に盛り上がっていく。
「王都に旅立った彼を待つ女性……健気で素敵です!」
「現実に恋物語が起きてるなんて……ロビーが聖地化してるんですよ!」
「わ、私そんなつもりでは……!」
赤くなったり青くなったり――その姿はまるで、一週間前にからかわれていた橘花のようだった。
ロビーの片隅からは、ウェンツとロイヤードがこっそり覗いている。
「……なぁ、なんで茶々さんが尋問受けてんだ?」
「しっ。今止めると余計ややこしくなる」
その日を境に、茶々は――“王都に行った旦那を健気に待つ女性”として、アルミル中に知られることとなった。
⸻
ギルドでの茶々の印象は一変した。
通りすがりに職員がそっとお茶を置いてくれたり、見知らぬ女性冒険者が「頑張ってくださいね」と声をかけてくれる。
完全に“恋する淑女”扱いである。
事の発端は、恋バナで呼び出された直後。
事情を仲間に話していた時のことだった。
「つまり、ギルドの皆さんに恋バナをされたわけです」と、真面目に説明する茶々に、ロイヤードが苦笑を浮かべた。
「まぁ、橘花さん絡みとなりゃ、どこ行ってもそうなるだろうなぁ」
「ほんと、どこでも人気者ですよね、あの人」ウェンツも肩をすくめる。
ここで笑い話として終わる――はずだった。
だが、リュートがぽつりと口を開いた。
「――でも、茶々さんって結婚されてましたよね?」
場が一瞬、静まり返る。
「……え?」
「たしか、旦那さんのDVで酷いって。それを聞いたご主人様――橘花さんが『ぶっ飛ばしてやる!』って怒ってて、『逃げ場がないならうちに来い』って言ってたじゃないですか」
「ちょ、ちょ、ちょ、リュート!? な、なぜそれを!」
茶々が立ち上がる。耳まで真っ赤だ。
リュートは首を傾げながら平然と続けた。
「だって、僕はご主人様のサポートしていたんです。あの頃、茶々さんが泣いてたときも、全部側で聞いてましたよ」
「…………」
ゲームの時、確かに橘花の側に13歳設定のサポートAIであるリュートはいた。しかし、今頃そんな話をされるとは誰だって思わないだろう。
そして、その場にいた全員の脳裏に浮かんだのは、別れを選んだ女性と、怒って庇う男の構図。
しかも、橘花の性別逆転している現状では、どう見てもドラマのワンシーンだ。
リュートの無邪気な言葉で、ギルドのロビーの空気が一瞬で凍りついた。
お茶を飲んでいたウェンツがむせ、ロイヤードがスプーンを落とす。エレンが口に含んだお茶を口の端からこぼし、ソータは思わず固まる。
そして、イサミがゆっくりと立ち上がった。
猫目の瞳がギラリと光る。その表情に、リュートが軽く肩を揺らした。
「女性の過去をほいほい人前で話すなんて、あんた最低ね!!」
怒号一閃。
リュートは、びくぅっと身体をすくめる。
「だ、だってご主人様が、茶々さんを抱きしめてたから! てっきり、そういう……っ」
「そういう問題じゃないのっ!!!」
バンッ! イサミがテーブルを叩いた。
お茶が跳ね、隣のウェンツが慌てて壊れて困るものを遠ざける。
「今あんたがしたのはね! 人の痛みを茶化すような真似なの! どんな理由があっても、女の過去を勝手に晒すなんてあり得ないのよ!」
「で、でも……僕、嘘は言ってません!」
「そういうことじゃないって言ってるの! このバカ真面目犬がぁっ!!」
「僕は狼です!!」
「今の論点はそこじゃないわよっ!!!」
ギルド中にイサミの怒声が響き渡る。
奥の席の冒険者たちが「お、おう……なんか修羅場だな」と呟く中、茶々は顔を真っ赤にして両手で頭を抱えた。
「ううぅ……お願い、やめて! これ以上話が広がったら、橘花さんが帰ってきた時どんな顔すればいいのよぉ!」
だが、時すでに遅し。
ギルドの女性職員たちはすでに「抱きしめた」という単語を拾っており、ロビーの片隅では小声のざわめきが広がっていた。
「抱きしめたって……え、どんなシチュ?」
「やだもう、ロマンチック!」
「修羅場! これは修羅場案件だわ!」
ロイヤードが思わず口笛を吹く。
「……へぇ。つまり、橘花さんは旦那の暴力から助けてくれたヒーロー」
「違います!」
「それで“逃げ場がないならうちに来い”……それ、もうプロポーズじゃん」
「違うんですってばぁぁぁぁぁ!」
必死の否定も空しく、そこからの流れは怒涛だった。
ギルドでは「略奪愛説」「道ならぬ恋説」といった尾ひれがつき、昼休みの雑談ネタとして瞬く間に広まる。誰かが「昼メロ先生」と呟いたとか、呟かなかったとか。
「そんな旦那、捨てて正解よ!」
「橘花さん、あの性格で優しくて料理もできるんでしょ? 優良物件じゃないですか!」
「この街のみんな、二人を応援してますからね!」
――もう、止まらない。
茶々はうなだれながら、頬を押さえた。
「……橘花さん、帰ってきたら謝らなきゃ」
頬を押さえたまま、遠い目でため息をつく。
彼女の努力も虚しく、“橘花の妻(未公認)”という噂は、その日を境に完全に定着してしまったのだった。
橘花の先生呼び設定が、ここでもネタとして活きる!
元ネタ知ってる方いますか?




