第115話
重厚な扉が音を立てて閉じた。
王都冒険者ギルド・上層会議室。
壁際に整然と並ぶ紋章入りの旗、中央の長卓を囲む十数名の役員。その多くが、王都に根を張る有力貴族か、その息がかかった者たちだった。
城下での買い物を満喫した橘花とガンジは、次の朝、ギルド上層部からの“呼び出し”に応じてこの場に立っていた。
前まではガンジのみだったが、今回は橘花も一緒に連れてくるように命令が下る。
呼び出し理由は――名目上は「旧ミヤコでの一連の行動報告」。
だが、その場の空気に漂うのは報告を求める誠実さではなく、冷ややかな嘲りと、排他的な視線。
冒険者でありながらも異種族――鬼人族。
それが、この場で橘花を“敵視する理由”のすべてだった。
「随分と噂になっているようだな、アルミルと旧ミヤコでの件は」
椅子の一つから、細身の男が笑みを浮かべて声を上げた。
声にこそ柔らかさがあったが、瞳の奥には明確な軽蔑がある。
「しかしまあ……聞けば王都に来るなり街をぶらついていたとか。おまけに――街角にある露店のアクセサリー屋で、男二人で買い物とな?」
くすり、と周囲が笑う。
別の役員が口を開いた。
「ガンジ殿の“趣味”か? それとも、そっちの興味がおありで?」
くぐもった笑いが部屋の空気を濁らせる。
橘花の隣で、ガンジの太い眉がピクリと動いた。
静かに、しかし確実に怒気が滲む。
「貴様……」
椅子の脚が軋む音。
だが、その怒声をかき消すように――橘花が、柔らかく笑った。
「へえぇ。人間族って、そういう発想が真っ先に出てくるんだ?」
淡々とした声。
だがその笑みは、どこか底冷えするほど静かだった。
「な、なんだと?」
「いや、ちょっと不思議でさ。だって普通、“一緒に買い物した”だけでそういう話になるか?……そういう発想がすぐ出てくるってことは――身近にそういう人が多いのか、それともあなた自身がそうなのかなって」
「なっ……!? な、なにを――」
橘花は笑顔を崩さない。
柔らかく、しかし一言ごとに逃げ場を塞ぐ。
「ほら、人間族って繊細な社会構造してるんだろ? 人目とか体裁とかさ。……で、そういうのを表では言えないけど、裏では流行ってるとか。子供が好きな奴とか、同性じゃないと燃えない奴とか。あとは……縛られないと満足できないとか、踏まれたい願望とか、いろいろあるんだって?」
「ば、ばかを言うなッ!!」
立ち上がった役員の顔が真っ赤に染まる。
怒鳴る声が、焦りと羞恥の中で上ずっていた。
その姿が滑稽に見えたのか、他の数名の役員が思わず視線を逸らす。
橘花は、穏やかに首を傾げた。
「へえ、じゃあ“馬鹿なこと”なんだ。……それならよかった」
「な、なにが……!」
「だって、“馬鹿なこと”を真顔で他人に押し付けてきたら困るからね。あんたの趣味を私とガンジさんに、勝手に当てはめないでほしいんだよ」
静寂。
あまりに平然とした言葉に、笑いかけていた周囲の口が一斉に止まる。
橘花は、軽く息を吐き出すように続けた。
「私たちは任務の合間に、食材と調味料と……ちょっとしたアクセサリーを見ていただけだ。それを“趣味”だの“色”だの言い出す。それこそ、あなたたちがどんな環境で育ってきたのか、よくわかる発想だよ」
「……貴様、言葉を慎め!」
「慎んでるつもりだけど? これでも。……ああ、でも、もし本当にそういう趣味の話なら、ギルドじゃなくてそういう店で話した方がいいかもな。王都には専用の通りがあるって聞いたし」
「だ、誰がそんな場所に行くかっ!」
怒鳴り声が部屋に響いた瞬間、他の役員たちが息を呑んだ。
完全に“図星を突かれた人間”の反応だった。
視線が集まり、空気が一気に冷え込む。
橘花はあくまで微笑を崩さず、目だけが冷たく光る。
「……ね、そうやって自分の発言で自分の首を絞めるのは、やめといた方がいいよ」
沈黙。
ガンジがゆっくりと腕を組む。その口元には、かすかな苦笑が浮かんでいた。
「……お前さん、やるな。口で殴るの方がよっぽど性質が悪い」
「暴力より平和的でしょ?」
橘花が笑うと、今度はガンジが肩を震わせて笑った。
空気の支配権は完全に彼らに移っていた。
やがて、沈黙を破るように別の役員が口を開いた。
「……報告内容に戻ろう。我々は旧ミヤコで起きた事件の詳細を確認したいだけだ」
それは、撤退の合図だった。
あれほど威圧的だった男たちが、一転して話題を逸らす。
“勝負あった”――誰の目にも明らかだった。
橘花は軽く頭を下げる。
「はい、では旧ミヤコでの件を順を追ってご説明しますね」
淡々と報告を始める声に、もう誰も軽口を挟む者はいなかった。
会議が終わり、部屋を出たところで、ガンジがぼそりと呟いた。
「……しかし、あそこまで言うとはな」
「え、どこ? “踏まれたい”のとこ?」
「それだけじゃないが……お前の切り返しにスカッとしたが、少しやりすぎだ」
「うーん、でも、こういう連中ってさ。力でもなく、理屈でもなく、“恥”で黙らせるのが一番効くんだよ」
「……確かにな。あやつらの顔、見物だったわ」
ふたりの笑い声が、廊下に小さく響く。
その背後で、会議室の扉の向こうからは、怒りとも羞恥ともつかぬ低いざわめきが聞こえていた。
王都の中心――ギルド上層部。
そこに巣食う傲慢な貴族たちの中で、たった一人、鬼人の冒険者が冷ややかな笑みで“王都の偏見”を一蹴した瞬間だった。
⸻
橘花とガンジが出て行き、扉が閉まった後。
ざわめく周囲の微妙な空気の中で、顔を真っ赤にした貴族の男が、震える拳を机に叩きつけた。
「……鬼の分際で、言葉で人を見下すか。――いいだろう、次は“口”では済まさん。あの面、必ず地に伏せさせてやる……」
怒りに濁った声が、誰に聞かせるでもなく低く響く。
その瞳には、屈辱ではなく――確かな報復の光が宿っていた。




