第111話
「ウェンツ、ロイヤード、ちょっといい?」
王都に行くことが決定した日、ちょうどギルド内にいた二人を呼び止めた橘花は真剣な顔で二人に言った。
「お願いがある。本当はエレンやソータにも意見を聞かないといけないと思うんだけど時間がない。本題に入るんだけど、今回の王都への名指しでの呼び出しがあったんだ。でも、私が王都に行っている間に、貴族の手の者が街へ来ないとも限らない。……だから、街に残る茶々さんやリュート、イサミの事を守ってほしい」
橘花の声は淡々としていたが、胸の奥では焦りが燻っていた。
“もう帰る手立てを見つけているなら――簡易ゲートを潜ってしまえばいい”。
そんな誘惑が頭をよぎる。
だが、それはできない。
橘花が懐に入れた人たち――茶々も、リュートやイサミも、ウェンツ達も――見捨てるなんてできるはずがない。
街に帰ってきて元気なペーターの姿も見たかったが、橘花が旧ミヤコに行っている間に今後の話がまとまり、隠れ里の方に帰る時間になって、泣く泣く帰っていったという。
あとで泣きつかれること間違いなしだ。
そんな弟子の姿を無性に見たいと思うほど、橘花の心にも不安が爪を立てている。
ギルド本部からの呼び出しは橘花だけだが、貴族は茶々たちのことも調べ上げているはず。旧ミヤコで、茶々たちにあれだけのことをしても平気でいられる連中なのだ。それに横や縦のつながりは確実にあるだろうから楽観はできない。
人間族至上主義は、あの場にいた貴族たちだけではないのだから。
王都行きを打診されて色々と思考を巡らせたが、助けようにも手が届かない場所に行くのは物理的にどうしようもないことだった。
しかし、ロイヤードたちの意思も無視はできない。
「ただ無理強いはしない。貴族との対立となれば、危険を伴うだろうし、君たちは簡易ゲートが発生する場所から向かうに帰る選択もある。……本当なら、有無を言わさず安全な向こうに帰らせるのが大人なんだけどね」
困ったように笑う橘花を見て、ウェンツは静かに頷いた。
「任せてください。僕らだって、橘花さんに拾われた身ですから。背中くらい預からせてください」
ロイヤードは腕を組んで、不機嫌そうに口を開く。
「……早めに帰ってきてくれよ」
その声音に、橘花はふっと笑みを浮かべる。
「いい子にしてたら、王都の美味しいお菓子でも土産に買ってくるよ」
「子供じゃないんだから土産なんていらないって!」
むくれるロイヤードの頭を、橘花は大きな手で撫でた。
「……でも楽しみにしてて、美味しい物を選んでくるから」
その軽口の裏にある、不安と決意。
二人はそれを悟っていた。
だからこそ、誰にも言わず、橘花の行動も止められなかった。
⸻
アルミルを発って一日。
王都から派遣された馬車は、重厚さばかりが目立ち、居心地のよさには一切気を配られていなかった。
狭い。硬い。揺れる。
その三拍子に、橘花の長身はみごとに不向きで、すでに最初の試練に打ちひしがれていた。
「ガンジさん、腰が痛いんだけど」
「我慢しろ、まだ一日しか経ってないぞ」
「外を並走した方が早いし、体に響かない気がするんだけど」
「お前、迎えの馬車なんだから休憩や緊急時以外、出られるわけないだろう」
ごつごつした板座が突き上げのたびに尻を打ち、背中を通って腰に直撃する。
鬼人族の怪力も、剣戟を受け止める強靭な肉体も、ここではまるで意味をなさなかった。
「死にそう。衝撃が凄くない? この馬車……」
「意外に弱いんだな、橘花」
「狭いし、ダイレクトな衝撃の連続で腰がもう限界」
鬼人族の豪傑が顔をしかめて呻いているのを見て、ガンジは思わず笑ってしまった。
確かに戦場では頼もしさしかないが、馬車に揺られるたびに「ぐぇっ」と変な声を出すその姿は、拍子抜けするほど人間臭い。
窓の外は広大な草原。馬の蹄が刻むリズムと、車輪のきしむ音が延々と続く。
王都まで――急いでも往復一週間弱。
橘花の腰の試練は、始まったばかりだった。
旅路二日目の夜。
馬車を停め、指定の寄宿舎に泊まることになった。
石造りの建物は頑丈だが簡素で、寝台は固い藁を詰めただけ。
それでも、腰が死にかけていた橘花には天国だった。
「ふぅ……藁の寝床がこんなにありがたいとは」
ばたりと寝台に倒れ込み、大げさにため息をつく橘花を見て、ガンジは苦笑した。
「お前、戦場じゃ岩の上でも平気だったろうに」
「戦場とこれは別物だって。あれは気が張ってるし、終われば死んだように眠れる。馬車の振動は延々続くから心が削れるんだ」
「なるほどな……戦士にも弱点はあるってことか」
ふと「あれ?なんで戦場で岩の上に寝てたなんて知ってるの?」と、腰の痛みで霧散しつつある思考で考えながら、橘花が寝台に伸びきっていると、ガンジが椅子を引き寄せ、ランタンを机に置いた。
薄暗い灯りに照らされる顔は、普段よりも真剣味を帯びていた。
「なぁ、橘花」
「ん?」
「お前、今回の呼び出し……本当にただの事情聴取だと思ってるのか?」
問いかけには警戒心が混じっていた。
橘花は寝転んだまま、しばし沈黙した。やがて、ゆっくりと体を起こす。
「正直、思ってない。……私を取り込むか、排除するか。どっちかだろ」
その声には怯えも虚勢もなかった。ただ淡々と、事実を述べただけ。
ガンジは口を引き結んだ。
「だろうな。王都は、力ある者を放っておかない。利用価値があるなら近くに置き、危険なら消す。それが現実だ」
「だとしても、私は茶々さんやあいつらを置いていくつもりはない。利用されても、縛られても、背中を守るのは変わらん」
言い切る橘花の目は、かつて戦場で多くの冒険者を惹きつけたときと同じ光を宿していた。
ガンジは息を吐き、口元にわずかな笑みを浮かべる。
「お前は変わらんな。いや……前よりも、守るものが増えた分だけ強情になったか」
「私は……」橘花は言葉を選ぶように視線を落とした。「私は、正義を振りかざせる立派な人間じゃない。苛立ちを抑えられずに剣を抜いたこともある」
「旧ミヤコでのことか」
「……あぁ」
橘花は自嘲するように笑う。
「俺がしたのは私刑だ。正義なんかじゃない。恥じてるよ」
「だが、茶々はお前に感謝したんだろ」
「……茶々さんは優しいからな」
しばし沈黙が落ちる。外では夜風が寄宿舎の木戸を叩いていた。
やがて、ガンジがぽつりと漏らす。
「橘花。俺はな、お前が王都に呑まれちまわないか心配だ。お前は強い。だが、人は強すぎるものを怖がる。……怖がるからこそ、利用もすれば切り捨てもする」
「心配してくれてありがとう。でも安心してほしい。私は“私のやり方”を曲げない。王都がどう動こうと、守りたい奴を守る」
その言葉を聞き、ガンジは深く頷いた。
「そうか。なら、俺はお前が無事にアルミルに帰ってこれるように支えるだけだ」
橘花は、いつもの軽い調子を取り戻すように笑った。
「じゃあ王都で、美味い菓子でも土産に買って帰らないとな。腰が壊れなければ、の話だけど」
「ははっ。まずはそこを乗り越えろ」
二人の笑い声が、小さな寄宿舎の一室に響いた。




