第108話
アルミルの門前。
橘花の姿を認めた衛兵が、駆け足で街中へ報せに走っていった。
なにやら慌ただしい様子に、不安が再び迫り上がってきたのだろう。茶々が下ろしたままの両手をギュッと強く握り締める。
リュートとイサミも同じで、「ご主人様……」「ちょっと、橘花……」と側に寄ってきた。
リュートとイサミの頭を軽く撫で、茶々の背中を優しくポンと叩いた後、橘花は門前に足を進めた。
次に見えたのは――街の総出の出迎えだった。
冒険者ギルドの職員、冒険者仲間、商人、子供たちまで、皆が門の前に集まっている。
先頭に立ったのは、やはりガンジだった。
「馬鹿野郎! どんだけ心配させやがった!」
男泣きの声が響くと、周囲から笑い声が湧き上がった。
泣いている自分を笑われたようで、ガンジは真っ赤になり、怒鳴るように言い放った。
「お前、帰ってきたら言うことがあるだろうが!」
唐突な問いに橘花はきょとんとしたが、街の人々の表情を見回した。
笑顔、安堵、そして待ち続けた眼差し。
空気を読んだ橘花は、ひと呼吸おいて口を開いた。
「……ただいま」
その一言に、門前を揺らすほどの歓声が沸き起こった。
アルミルが誇る唯一の英雄の帰還を、人々は心から祝福した。
アルミルの門前で「ただいま」と言った橘花を、街の人々は大喝采で迎え入れた。
しかし、その熱狂はすぐに別の方向へ転がりはじめる。
人混みの中で、ふと冒険者のひとりが声を張り上げた。
「おい……見ろよ! 橘花の隣にいるの……鬼人族の女じゃねえか!」
仲間がそれに被せる。
「間違いねぇ! 橘花が――嫁さん連れて帰ってきた!!!」
その一言は火に油を注いだように瞬く間に広がった。
「えっ、嫁?!」
「マジかよ! 英雄が美人連れ込みか!」
「やっぱり英雄色を好むってやつだな!」
街中に響き渡る冷やかしと囁きは、すぐに噂となり、門の周りの住人まで巻き込んだ。
「あら、式はこの街で挙げるつもりなのかしら」
「羨ましいねぇ……英雄様はやっぱり違うわ」
「なんで俺たちの時代には、あんな美人が降ってこねぇんだ!」
橘花は慌てて手を振り、真剣に否定する。
「違う! 誤解だ! この人は――ミブロの仲間だ! 私がずっと探してた仲間なんだ!」
しかし、次の瞬間。
茶々が人前に一歩進み出て、深々と一礼した。
「茶々と申します。不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
その言葉と所作が、見事に大和撫子を体現していた。
あまりの完璧さに、街の空気は爆発したように沸き立つ。
「おい見たか! 嫁さんじゃねぇか!!!」
「俺もあんなふうに迎えられてぇええ!」
「ちくしょう、豆腐の角に頭ぶつけてこようかな!」
挙げ句には、ラークの親父まで腕を組んで言い出す。
「橘花ぁ、お前さん……戦も強けりゃ嫁取りも早えな! 街の羨望全部持っていきやがったな!」
――完全に信じてもらえなかった。
橘花は両手で顔を覆い、呻いた。
「……ああ、説明すればするほど泥沼だ」
その横で茶々は、にこやかに会釈を繰り返す。
それがまた、街の連中に「できた嫁」と誤解を深めさせるのだった。
⸻
茶々は「嫁」という言葉に最初こそ目を瞬いた。
(よ、嫁……? 私が?)
橘花の横顔を盗み見て、慌てて首を振ろうとしたが、周囲から湧き上がる歓声と冷やかしがそれを遮った。
英雄をからかう街の人々の笑い声。
それは、かつてのミヤコで味わった刺すような嘲笑とはまるで違う。
自分を排斥するためのものではない。
そこには、異種族を拒まずともに笑おうとする――温かな空気があった。
(……ああ、私は狭い井戸の中の蛙だったのね)
旧ミヤコでは考えられなかった光景。
世界には、まだ異種族を笑顔で迎えてくれる場所があるのだと、胸の奥にじんわりと広がる。
涙がこぼれそうになり、思わず視線を落とした。
けれど、ここで泣いてしまえば、この明るい空気を壊してしまう。
だから茶々は、ゆっくりと顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべて一礼した。
「茶々と申します。不束者ですが、よろしくお願いいたします」
その瞬間、群衆はまたどっと沸いた。
「おい聞いたか! やっぱり嫁さんだ!」
「なんておしとやかなんだ!」
「俺もあんなふうに迎えられてぇぇ!」
反応は様々だが、温かい雰囲気は壊れない。
むしろ、さらに熱を帯びていく。
(……この雰囲気の中に入れるのなら)
橘花をちょっと困らせても――いい。
仲間として、この輪の中に入りたい。
気づけば、茶々は心から笑っていた。
それは本当に、いつぶりだろうか。
五年前の自分がまだ未来に夢を描けていた、あの頃以来の笑顔だった。
⸻
街の広場は、いつの間にか祝祭さながらの騒ぎになっていた。
橘花は必死に両手を振り、喉が裂けるほど叫ぶ。
「だから違うって言ってるだろ! 茶々さんは仲間だ! 嫁とかそういうんじゃなくて――!」
しかしその横で茶々は、涼しい顔で両手を軽く重ね、目を伏せ、ほんのりと微笑む。
「皆さま、どうぞご期待なさらずに……」
その一言が火に油を注ぐ。
「聞いたか!? どうぞご期待なさらずって!」
「絶対そのうち式あるやつだろ!」
「英雄、完全に観念しろー!」
橘花は顔を真っ赤にして絶叫した。
「なぁぁぁあぁああ!? 違う!違うからなぁぁあ!」
その光景を少し離れた石段から見物している仲間たちは――完全に観客だった。
ウェンツは袋入りのナッツをボリボリ齧りながら、しみじみと呟く。
「いやぁ……橘花さんも世間様には勝てないね」
ロイヤードはポップコーンの袋を片手に、口の端を吊り上げる。
「戦場であれだけ無双しても、女一人の所作で完封される……皮肉なもんだな」
エレンはスポーツドリンクを飲みながら静かに笑う。
「橘花さん、顔真っ赤。あれはもう言い訳できない」
リュートは膝を抱え込み、目を輝かせていた。
「すごい……! ご主人様、本当すごい人気者!」
イサミは呆れ顔で肩をすくめる。
「戦ってる相手が悪いわね。モンスターより強敵じゃない」
そして――その後ろ。
ソータがドローンを操作していた。
空に舞う小さな機械は、橘花と茶々をバッチリ捉えている。
ソータもポップコーンを片手に、画面を食い入るように見つめていた。
「よし……このアングル最高。次は横顔のアップだ……! うわ、橘花さん、泣きそうな顔してる! 保存、保存っと!」
「おい、それ後で見せろ!」とロイヤードがポップコーンを投げつけ、「編集して劇場で上映できるんじゃない?」とウェンツがケラケラ笑う。
まるで映画館の観客席。
仲間たちは菓子を手に、橘花の必死の弁明と茶々のしれっとした流し技を、心底楽しんでいた。
一方の橘花は――。
(なんでだ……なんで誰も助けてくれないんだ……!)
と、仲間たちの視線すら気づかぬまま、群衆と茶々に完全に追い詰められていた。
⸻
急遽、ギルドが用意してくれた宿へ全員が向かう道すがら。
先ほどの喧騒はまだ尾を引いていて、すれ違う人々からは笑顔とひやかしが絶えなかった。
「おーい、式には呼んでくれよ!」
「英雄様、嫁さん孝行忘れるなよー!」
「羨ましいねぇ! いい人捕まえたな!」
宿に着いて部屋を割り当てられ、各々の部屋に入った後、さっきまでのことを思い出すたびに、橘花はぐぅぅっと毛布を引き寄せ、すっぽりと顔を隠す。
ベッドの上で不規則に揺れるその姿は――どう見ても巨大な毛布玉。
冬眠前のクマが丸まっているようで、今後を話し合おうと部屋に来た背後のロイヤードたちも笑いをこらえるのに必死だった。
「……どーして、こーなった!?」
毛布の奥から、くぐもった声が響く。
茶々は部屋の椅子に座りながら、唇を噛みしめて震えていた。
「ご、ごめんなさい、橘花さん。で、でもね……こんなに熱烈歓迎してくれる街なんて……ほんと、な、い……」
言いかけて、ぷるぷる震え――そして、ぷはっと笑い声が漏れる。
「ふ、ふふっ……く、苦しい……あはははっ……!」
橘花がじろりと毛布から片目を覗かせた。
「……笑いながら言っても説得力ないんですけど、茶々さん」
その鋭い視線も、茶々にはまるで効かない。
涙を浮かべてお腹を抱え、肩を揺らしながら笑い続けている。
「あはははっ……だ、だって……橘花さん……くま……っ……ほんとに、くまみたいで……あはははは!」
「これは蛹! 冬眠クマじゃない!」
「ち、ちが……あははははっ!」
夜の帳が下りるギルド宿舎に、二人の掛け合いと笑い声がいつまでも響いていた。
そして、宿の部屋割りで茶々と同室にされている意味に気づかない橘花は、今後もまたいじられるのだ。




