第107話
旧ミヤコを発って三日。風が変わった。山々と森に囲まれた道を吹き抜ける朝の冷たい風は、行きとは違い、どこか清々しさを帯びている。
来るときはさほど時間をかけなかった橘花たちだが、帰りは連れが増えたこともあり、のんびりとした足取りになった。その中で、茶々は古傷の影響もあり片手足が思うように動かず、長時間歩くことができない。運良く借りた馬車があったとしても、旧ミヤコ周辺の整備されていない街道の悪路では、ほとんど役に立たなかっただろう。砂利や小石の跳ねる音、森の匂いに混じる湿った土の匂いが、旅路の疲れをより現実的に感じさせた。
足を止めて休息を取るたび、茶々は「ごめんなさい」とつぶやく。そのたびに橘花は「謝らないで」と言っていたが、五度目の「ごめんなさい」を聞き流すことはできず、ついに茶々をおんぶした。
「そんなに気にするなら、抱っこでもおんぶでもするよー?」
年相応に慌てた茶々は顔を真っ赤にして、「降ろしてください!」と叫ぶ。一方で橘花は冗談めかして笑う。
「えー、謝るなんて水臭いことするなら降ろせないなー」
「でも、早く着かないと……」
「快速がお望みならっ!」
「え、ちょ、橘花さんんんんんーーーっ!?」
突然の猛烈なダッシュ。茶々は必死にしがみつくしかない。木々の間を駆け抜ける風に、彼女の髪や着流しの袖が翻る。リュートとイサミはその無邪気なやり取りを見て喜び、葉っぱの匂いと朝露の冷たさを感じながらも、口を出さずに笑顔で追いかける。ロイヤードたちも、街にいた頃、アバターの体に慣れるため橘花の突発行動に散々振り回されていたので、今ではすっかり慣れっこだ。
「橘花さん、みんなで街まで競争しよーぜ!」
「なっ!? 人間族なんかに負けないんだから!」
ロイヤードが先に前へ飛び出すと、イサミが反応しムキになってスピードを上げる。
「ちょ、ちょっと待って、そんなスピード……」
「いいね! 一丁、競争してみるか!」
「ええええっーーー!?」
「ズルイ、兄さん!フライングッ!」
「あははっ! なんか楽しいですね!」
「……夕飯までに着いたら、橘花さんのご飯を食べたい」
「あ、それ僕のセリフ! 僕だって、ご主人様のご飯また食べたいですっ!」
全員が全力疾走。森の香り、泥の匂い、跳ねる小石の音に包まれながら、叫ぶのは茶々だけで、残りの仲間たちはノリノリだ。
枝葉がかすめるたびに、茶々の息も荒く、橘花の背中にぎゅっとしがみつく。だが、彼女の抗議も笑い声にかき消される。
ようやくアルミルの街への案内板が視界に入った頃、橘花が歩みを止めると、背中をバシバシ叩く茶々の抗議が街道の終点まで続いた。夕暮れの光が森の影を長く引き、全員の笑い声と疲労の息が、草木の間に静かに溶けていった。
いよいよアルミルの街が森を抜けた先に見えた時、茶々が橘花の肩をきゅっと強く掴んだ。
「大丈夫だよ、茶々さん」
その不安を感じ取ってか、リュートが側に来た。
「……でも、ご主人様。ほかの街も同じようになってるかもしれません」
リュートが言葉を継ぐ。
狼獣人の耳が、わずかに下を向いていた。
「人間族の支配って、旧ミヤコだけじゃなかったはずです。僕たち、また戦うことになるんじゃ……」
「それに……アルミルだって、人間が多い街でしょ?」
イサミも小さく唇を噛む。
爪の間にまだ血が滲んでいた。
「わたしたちが歓迎されるなんて……思えない」
茶々は一瞬、二人を見たあと、橘花へと視線を送った。
さっきまで競争をしていた無邪気さはなりを潜め、茶々を守ってきた戦士モードになっている。
橘花は立ち止まり、街道の先を見つめた。
空には薄く昇る煙が見える。
それがアルミルから上がる夕刻の煙だと気づき、わずかに口元を緩めた。
「アルミルは、大丈夫だよ」
その言葉は、まるで天気予報のように穏やかで、しかし確信に満ちていた。
「こっちのギルドの連中、ちょっと変わってるけどな。獣人でも鬼人でも、腕が立てば仲間だ。……それに私が何も知らずにここにきた時から暮らせている街だよ、大丈夫」
その言葉に、茶々の口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「橘花さん、ほんとうに変わりませんね」
「変わらないのが取り柄だろ」
そう言って、茶々を背中から降ろすと、橘花は軽く背伸びをした。
「いいか。これから行くアルミルは、“出発点”だ。終わりじゃない」
橘花の言葉に、リュートとイサミが顔を見合わせる。
二人の不安げな表情が、ほんの少しずつ和らいでいく。
「まずは風呂入って、飯食って、寝る。それから考えよう――どう動くか、何を守るか、な」
「……了解しました、ご主人様」
リュートは真面目に頭を下げ、イサミは鼻を鳴らした。
「はぁ……まったく、呑気なんだから」
だが、その尾の先はほんの少し、嬉しそうに揺れていた。
「心配すんなって、あそこの街で橘花さんて意外に地位あるんだぜ?」
「そうですよ。なんたって先生とか呼ばれましたし」
「そうそう。街を救った英雄だし?」
「橘花さんの身内なら歓迎一択」
「ちょっと待て。どうして君たちはそう言って勝手に期待値上げるかな?」
ロイヤードの言葉を皮切りに、ウェンツ、ソータ、エレンが口々にアルミルでの評価を口にする。
橘花としては、色々黙っておいて欲しい事だった。
そんなやり取りを横で見ながら、茶々は静かに目を閉じ、風を感じる。
あの灰と血の匂いが消え、微かに濃い緑の匂いが混ざっている。
それは、山と森に囲まれた街アルミルの気配だった。
「……行きましょう」
茶々の言葉に、橘花が頷き、全員で歩き出す。
森を吹き抜けてきた風が彼らの背を押し、その風の先に、再び立ち上がる者たちの街――アルミルが待っていた。




