第106話
中途半端に崩された摩天楼の残骸を背に、エルネスト・ホークは這うようにして逃げ出していた。
右腕と左脚の腱を斬られ、杖を突くことすらままならない。
転げるように階段を降り、床を這い、血と埃にまみれた顔で唇を噛む。
(――鬼の女頭領と、あの忌まわしい剣鬼め。どうして、こうも惨めな姿を晒さねばならんのだ!?)
怒りとも恐怖ともつかぬ息を吐きながら、彼はようやく下界の屋敷にたどり着いた。
玄関扉を乱暴に開け、呆然とする召使いたちに怒鳴る。
「馬車を出せ! すぐにだ! 王都へ向かう!」
しかし、その声は震え、喉はかすれていた。
屋敷の者たちは顔を見合わせ、動こうとしない。
「だ、旦那様……街が……」
「飛行船も落ちたようで、一体何が……」
「黙れ! 命令だ! 私はこの街の総督だぞ! 馬車を出せっ!」
――その言葉を聞いて、屋敷にいる者たちの視線が一斉に突き刺さった。
異種族を追い出し、街をいいように搾取してきた張本人が、摩天楼の崩壊を前に“真っ先に”逃げ出そうとしている。
「……結局、自分だけかよ」
「この五年、俺たちをこき使っておいて、逃げるのは一瞬だな」
「異種族よりよっぽど醜いぜ、あのお貴族様は」
冷ややかな嘲笑が、静かにしかし確実に屋敷のあちこちから漏れる。
かつて彼が威張り散らした声は、今やただの遠吠えだった。
命じられた御者は恐怖と義務感の狭間で震えながら、埃をかぶった貴族専用馬車を引き出す。
「なんだこの馬車は! 手入れをしていないとはどういうことだ!?」
埃だらけの馬車を見たエルネストが喚き散らす。
それはそうだ、空路が確保されてから一度たりとも、エルネストはこの屋敷に来たことがない。
乗らない貴族用の馬車の維持費は、庶民からすれば無駄遣い以外の何ものでもない。主人が見にこないことをいいことに、使用人たちがやりたい放題していたのは明白。主人がクズなら使用人の質も高が知れていた。
五年ぶりに動かされるその車輪は、ぎいぎいと悲鳴を上げた。馬たちは落ち着かず、蹄を鳴らして嫌がる。
対して街中の移動でも幾度か使うため、使用人の馬車は手入れはされていた。御者が安全面も考慮し提案したが、それをエルネストの貴族の矜持が許さなかった。
「主人に使用人の馬車を勧めるとは何事だ!」と鞭で打ち据え、ベテランの御者が動けなくなると、怒声で屋敷の執事を呼ぶ。
「お前の監督不行届だ、お前が馬車を動かせ!」
御者の代わりに馬車を動かすことになった執事は、この始末を誰に押し付けるかで頭がいっぱいになり、結果どうなるか抜け落ちていた。
ついて来させていたエルネストの取り巻きたちも乗り込み、なんとか屋敷の門の前にまで出せたが、馬たちがいつもと違う馬車と周りの雰囲気で、そこから動こうとしない。
中で喚く主人に辟易しながら、執事は苛立ちから何度も馬たちに鞭を入れて、ようやく人並みの速さで再び動き出す。
こうして、体験したことのない恐ろしい思いをし、恐慌状態だった取り巻きたちをなんとか率い、旧ミヤコの瓦礫を後にして、エルネストは血と泥にまみれたまま、取り巻きたちと共に王都へ逃げ出した。
手足は依然として不自由で、全身を覆う傷跡と血の匂いが馬車内に漂っている。かつて高慢に振る舞った貴族の威厳は、もはやどこにもなく、ただ自分たちの身を守ろうと必死に体を縮こませるのみだった。
「早く進め、王都まで……!」
エルネストは苛立つ声を振り絞ったが、取り巻きたちは顔をしかめるばかりで、馬車の進行は鈍かった。旧ミヤコ周辺の街道は、人間族の統治が始まって以来、整備も補修も行われず、雑草と瓦礫で覆われ、モンスターが跋扈する危険地帯と化していた。
馬車の車輪は岩や倒木に引っかかり、揺れは容赦なく乗っている者たちの体に襲いかかる。手と足が不自由なエルネストは、もはや自力で体を支えられず、取り巻きの腕を掴んで辛うじて転倒を防ぐ状態だ。血と泥、そして恐怖の匂いが車内に渦巻き、馬車を揺らす。
「……ま、まずい……」
取り巻きの一人が低く呟く。だが、エルネストは耳を貸さない。
「馬車を早く……、王都まで……!」
血と泥にまみれた体で怒鳴り、命令を続ける。彼の目は、かつて他者を見下していた高慢な光をわずかに残していた。だがその光は、すぐに絶望に変わる。
馬車が大きく揺れるたびに、車輪は砂利と岩に跳ね上げられ、馬は悲鳴に近い嘶きを上げる。道端の茂みからは、牙を光らせたモンスターが突然姿を現し、飢えた視線を馬車に注ぐ。取り巻きたちは悲鳴を上げ、むき出しの武器で応戦するが、後方から迫るモンスターの群れは止まらない。
「この道は……俺たちの知っているような街道じゃ……!」
「せ、整備は……? モンスターの排除は冒険者の役目だろっ!?」
「うるさい! うるさいぃぃっ! さっさと馬車を走らせろっ!!」
ようやく息をついた取り巻きたちが現状を叫ぶ。辟易しながら御者を務める執事は馬たちを叩き、鞭を必死に振るう。しかし、エルネスト・ホークは自由に動かせない腕と足に苛立ちながら喚くのみ。自らが顧みずに放置してきた街道と領地の現状を、まだ理解できていないのだ。
荒れ果てた道の途中、馬車は大きく傾き、車輪の一つが壊れる。揺れに耐えきれず、血と泥にまみれたエルネストは体を前後に振られ、腕と足の損傷がさらに痛みを増す。取り巻きたちは必死で支えるが、馬車の進行は止まり、モンスターはさらに接近してくる。
「馬車を降りろ! 戦え!」
必死の叫びが車内に響くが、エルネストはそれすらもろくに指示できない。手足の麻痺と痛みが、かつて自分が他者を見下していた傲慢さを容赦なく打ち砕く。血と恐怖の匂いが、モンスターたちの本能を刺激し、馬車の周囲に群れを形成する。
やがて馬車の車輪が完全に破損し、揺れる車体が転倒する。取り巻きたちは悲鳴を上げて飛び降りるが、血まみれの馬車からほとばしる匂いにモンスターたちは吸い寄せられる。
エルネスト・ホークは、もはや馬車から身を起こすことすらできない。手足の損傷が限界を迎え、体を支える力は残っていなかった。
モンスターたちが一斉に馬車に襲いかかる。取り巻きは必死で応戦するが、次々と捕らえられ、血と悲鳴が混ざり合う。地面に転がるエルネスト・ホークは、かつて自らが放った言葉を思い出す――
『弱者はただ喰われていればいいものを!』
その言葉が、まさに自らの身に返る瞬間だった。血と泥にまみれ、手足の自由を奪われた状態で、彼はモンスターに囲まれ、逃げ場を完全に失う。取り巻きたちも次々と犠牲となり、王都への脱出は瞬く間に崩壊した。
最後にホークは、自らの過信と傲慢さを呪うこともできず、目の前で暴れるモンスターたちにただ押し潰される。泥にまみれ、恐怖と絶望に震えるその姿は、旧ミヤコで虐げてきた市民や異種族たちへの報いそのものだった。かつて自分が振るった威厳も、血と泥に染まったその姿の前では、ただの幻想でしかなかった。
牙が肉を裂き、悲鳴が虚空に消える。
高慢な貴族の末路は、血と泥の中で、あまりにあっけなかった。
旧ミヤコを勝手に捨て、異種族や市民を見下していた貴族は――自らの言葉通りになった。
摩天楼崩壊の痕跡と共に、彼の運命は荒れ果てた街道に刻まれ、二度と街に戻ることはなかった。




