第105話
飛行船は、火の尾を引いて裕福層が住む街の上に墜ちた。
貴族の権威の象徴とも言える飛行船が爆ぜる音と、立ちのぼる黒煙は旧ミヤコの端からもはっきりと見えた。
街の一角は、まだ先ほどの衝撃と摩擦による独特の匂いを色濃く残していた。
飛行船が墜落した爪痕は、通りを無惨な瓦礫の山へと変貌させている。砕けた石材と折れた鉄骨が折り重なり、倒れた街灯は影のように横たわり、看板の残骸は無数の破片と化して散乱していた。街に響くのは、瓦礫を踏み抜いた住民があげる小さな悲鳴と、誰かがすすり泣く声だけ。喧騒は消え、残っているのは虚脱と怯えに満ちた沈黙だった。
その廃墟のように静まり返った中を、橘花は一歩一歩進んでいた。鬼人族の象徴である角が朝陽の光に浮かび上がっている。だが、その背中は不思議なほど静謐で、まるで自分の為すべきことを終えた者のように揺らぎがなかった。
しかし、その姿を見た住民の一人が、耐え切れず叫んだ。
恐怖と怒りと絶望がないまぜになった、張り裂けそうな声で。
「お、おい! こ、この状況はどうするんだ!? お前がやったことなんだろう!? あの摩天楼を、街を……街をこんなにして……!」
橘花は立ち止まった。振り返らずに、低く響く声を返す。
「だからなんだ。ミブロの拠点を焼き、異種族の居場所を奪った時、これは間違ったことだと誰か声をあげたか? それとも自分たちの優位性を妄信し、異種族は“下等種”だから何をしてもいいと?」
「……きっ、貴族がしたことだろう?! 俺たちは関係ないっ!!」
「不都合が起こった時だけ自分たちは悪くないと宣うのが、お前たちのいう"上位種"かっ!」
その声は、雷鳴のように通りを震わせた。言葉に込められた怒気は、聞く者の胸を貫き、誰もが思わず息を呑んだ。
先ほどまで威勢よく罵声を浴びせ、嬉々として石を投げていた住民たちも、言葉を失い、口を噤む。
沈黙が広がる。
やがて、炎に焼かれ半壊した船体から、すすけた衣を纏った者たちが這い出してきた。
髪は乱れ、絹の裾は焼け焦げ、顔には煤と血。
地面に叩きつけられる衝撃緩和の安全装置が発動したおかげで落命は免れたものの、船体の中で縦横無尽にシャッフルされたのか、上下関係なく穴という穴から出てはいけない液体が出てあちこち付着している。
ほんの数刻前まで摩天楼の頂で悠々と構えていた貴族たちが、地べたを這い泥に塗れて逃げ惑う姿は、見る者に痛烈な落差を突きつけていた。
その中に、ひときわ醜く罵声を吐く男がいた。
「……っ、鬼人風情が、よくも、よくも……!」
折れた杖を片手に、息も絶え絶えに顔を歪めて立ち上がる。
血に濡れた衣のまま、なお橘花を睨みつけ、唾を飛ばした。
「下賤な怪物が……! この野蛮な行為が許されると思うな! そうか――あの女、鬼人族の女頭領に頼まれたのだな!?」
泥にまみれ、瓦礫から這い出てきた男――エルネスト・ホーク。旧ミヤコを牛耳っていた貴族だ。落ちぶれ、臭気を纏い、誰も目を背けるような有様でありながら、その口だけはまだ猛々しく吠えた。
「弱者はただ喰われていればいいものを!」
痰を飛ばすような濁声が街に響く。
「鬼人族の女もそうだ! 手足が不自由な状態で生かしてやっているのも罰だ! 貴様も我らに逆らうなら、それ相応の罰が降るからな! この街は――この国は――人間族のものだ!」
その瞬間、橘花の双眸が光った。氷の刃のような、容赦なき輝き。
次の瞬間、風が裂けた。
音すら掴めぬ速さで、橘花は刀を抜いた。白刃がひと閃し、空気を切り裂く鋭音が木霊する。誰も反応できぬほどの一瞬の動作。
「ぎゃああああっ!」
エルネストの絶叫が遅れて響いた。右腕と左脚の腱を正確に断たれた肉体は崩れ落ち、泥に塗れた体をさらに地面へと叩きつけられる。もがき、這い、のたうちながら、彼は己の片手足がもう動かぬことに気付く。
橘花はその姿を冷然と見下ろした。
「なら、お前も私の怒りに触れたな」
低く、冷徹な声。
「不自由になった感想はどうだ。罰なんだから、当然受け入れるんだろうな?」
その言葉には、情も慈悲もなかった。
ただ、突き刺さるような怒気と、裁きの冷たさだけがあった。
誰かが小さく悲鳴をあげたが、それ以上に街は凍り付いていた。市民も、衛兵も、口を開くことができなかった。剣を抜く者も、橘花を取り押さえようとする者もいない。
彼の怒りの刃が、次は自分へと向けられるかもしれない――そう思うだけで、誰一人として動けなくなったのだ。
橘花は、刀を丁寧に拭い、静かに鞘へと収めた。
その仕草には、ただ淡々とした日常の一部のような気配があり、逆に恐怖を煽った。
振り返らない。誰にも目を向けない。ただ前を向き、瓦礫を踏みしめて歩き去っていく。
その背中が遠ざかるほどに、市民たちは息を呑んだ。
彼らの胸に刻まれたのは、異種族の怒りの重み。貴族の矜持が粉々に砕かれた事実。そして、自分たちが口にしてきた「上位種」の言葉の空虚さだった。
空は澄み切っていた。
だがその青空の下に広がっていたのは、正義の怒りの余韻と、誰も手を伸ばせぬ孤高の背中だった。
橘花が去った後も、誰一人として声を上げられなかった。
ただ、彼が残した裁きの残響が、街の空気を重く支配していた。
⸻
街は沈黙していた。
橘花が去っていく足音だけが、瓦礫まみれの通りに残響する。
誰も声を上げなかった。
だが――誰もが胸の奥に、重くのしかかるものを抱えていた。
「……本当に、下等種なのか?」
誰かが小さく呟いた。
振り返れば、橘花が告げた言葉は、確かに彼らの耳を打ったのだ。
『不都合が起こった時だけ自分たちは悪くないと宣うのが、お前たちのいう"上位種"かっ!』
今まで誇りとして疑わなかった人間族の優位が、虚ろな響きに変わった瞬間だった。
「おい、やめろ。役人に聞かれたら――」
隣にいた男が慌てて制したが、その声にも震えがあった。
瓦礫に腰を下ろした老婆が、皺だらけの手で顔を覆い、かすれ声で嗚咽した。
「わしら……わしらが、異種族を、ミブロを追い出したんじゃ。困った時には助けを乞うて……なのに、為政者が変わったからと罵って……」
老婆の言葉に、バツの悪い顔をする者たちがいた。そのほとんどが顔を歪め、拳を固める。
彼らはこの地がまだミヤコと呼ばれていた時代、ミブロが市民を庇いながら戦っていた姿を間近で見ていた。
なにかあれば、いの一番に駆けつけてくれていた、種族は違えど頼もしい隣人たち。
だが、世界各地で被害を出した鉄の侵略者の厄災後、人間族の為政者が始めた政策に恐怖に縛られて声を上げられなかった自分たちを思い出し、奥歯を噛み締める。
「俺たちは……何をしてるんだ。あの人は、戦って、守って……それでも……」
言葉は続かなかった。
だが、その沈黙は今までの無関心とは違った。
恐怖と悔恨が入り混じり、誰もが自分の胸に矛盾を突きつけられていた。
エルネストの悲鳴はまだ耳に残っている。
その姿は確かに恐ろしかった。
だが、それ以上に――橘花の問いかけが胸に残っていた。
「俺たちは、本当に“上位種”なのか?」
その呟きは、誰も声に出さなかったが、確かに住民たちの胸の内に芽吹いていた。
小さな、しかし決して消えない種として。
橘花の背は遠ざかっていく。
彼は振り返らない。
だが、彼が去った後に残されたのは、ただの恐怖ではなかった。
街の人々はその夜、瓦礫の中で目を閉じるたびに、あの声を思い出すことになる。
誇りと蔑みの裏に隠れてきた欺瞞を暴かれ、向き合わざるを得なくなった自分たちを。
そしてその小さな芽は、後に街の空気を変える火種となっていく。
恐怖の象徴として現れた鬼人族の男が、いつしか「己を映す鏡」として語られることになるのは、まだ少し先の話だった。




