第104話
摩天楼の最上階。
下界で起きている緊張と騒乱など存在しないかのように、その空間は優雅な朝の光に満ちていた。
各々の与えられた部屋である者は金銀の食器に盛られた果実と温かいスープを味わい、ある者は窓辺で香り高いコーヒーを啜っている。堕落した貴族のひとりは、まだ朝を迎えるのは早いとばかりに寝台に娼婦を引き寄せ、笑い声とため息を漏らしていた。
その権力の中心に座するのは、エルネスト・ホーク。
髪は丁寧に撫でつけられ、豪奢な椅子に腰掛けながら、白磁の皿に盛られたコカトリスのマリネへとフォークを突き立てる。
そこへ、慌ただしく執事が駆け寄り、耳打ちした。
「閣下、鬼人族が一人……摩天楼前に姿を現しました」
エルネストは面倒そうに瞼を持ち上げる。報告者を一瞥し、長いため息を吐いた。
「私が対応するまでもないことだ。煩わせるな」
その声音は、氷のように冷たく、侮蔑を隠そうともしなかった。
執事が下がると、彼はちらりと窓の外を見やる。
この最上階に位置するエルネストの部屋は、皆から天空の間と呼ばれている。
透明なクリスタルを板のように薄く伸ばした割れない窓が嵌め込まれていた。足元から天蓋まで続く透明なそれは、雲の流れと陽光をそのまま映し、世界の果てまで見渡せそうな光景が広がる。
鉄の侵略者の残された部位を利用したものだが、このような景色は王族でも見られまい。
エルネスト自身の密かな自慢の部屋でもあった。
ワイングラスを片手に窓の側まで行くと、屋根に立つ銀髪の鬼人族の姿が、はるか下界に小さく見える。
だが、その目に映ったのは「脅威」でも「対等な存在」でもなかった。
「害虫風情が……」
鼻で笑い、ワイングラスを指先で揺らす。
「私の指示なしでは動けぬ者ばかりか。下々の管理とは、つくづく骨が折れる」
ふんっと鼻を鳴らし、興味を失うと席に戻り、皿の上の料理へ再びフォークを運ぶ。
肉の柔らかさと芳醇な香りを味わいながら、彼の関心はもはや外にはない。
摩天楼の上階には、下界のざわめきとは無縁の時間が流れていた。
その隔絶こそが、彼らが「貴族」として享受してきた特権であり、また自らの崩壊を招く遠因でもあった。
そして、数分後ーー。
摩天楼前の広場に、異様な轟音が響き渡った。
銀髪の鬼人族ーー橘花が、巨槌を振りかざし、摩天楼の最下層へと叩き込んだ瞬間だった。
その一撃は正確で容赦がなかった。
結界に守られたはずの最下層は、まるで積み木の一片のようにスッコーンと弾かれ、広場の外へ吹き飛んでいく。
ズドォーン。
摩天楼全体が揺れ、上に重なる階層が自重で沈み込む。
橘花は軽快に跳躍し、次の階層へ。
巨槌が唸りをあげて振り下ろされるたび、また一層が外へと弾き飛ばされ、残った摩天楼はさらに低く沈んでいく。
「もいっちょっ!」
すっこーん! ズズーン!
「まだまだぁっ!」
すっこーん! ズズーン!
広場の民衆はただ呆然と見上げるしかなかった。
結界も、権威も、威光も、鬼人族の一振りの前に滑稽に崩れていく。
摩天楼の最上階、優雅な朝餉を楽しんでいたはずの貴族たちも、ついに皿が跳ね、ワインがこぼれ、椅子ごと床に叩きつけられる。
「な、何事だ!?」
「ば、馬鹿なっ! この摩天楼が揺れるなど――!」
叫び声は次の一撃にかき消された。
橘花は高らかに笑い、街の上には決して瓦礫を落とさぬよう計算しながら、階層ごと叩き飛ばし続ける。
それは力任せではなく、むしろ余裕を漂わせる熟練の技だった。
「降りるのが面倒ならっ、下ろしてあげればいいっ! 私って、優しいだろっ!?」
人々は見た。
誇り高き摩天楼が、一撃ごとに低くなっていく光景を。
それは同時に、揺るぎないと信じていた「人間族貴族の権威」が瓦解していく象徴でもあった。
奇策・だるま落としによる揺れが続く、摩天楼の最上階。
崩落の振動に揺さぶられ、もはや優雅さのかけらもなかった。
皿は砕け、絹のカーテンは舞い、贅を尽くした広間は恐慌の阿鼻叫喚に包まれる。
「飛行船だ! 早く飛行船を!」
「落ちるぞ、ここはもうもたん!」
「押すな、私が先だ、私は侯爵家の血筋だぞ!」
その声も、もはや威厳ではなく獣じみた悲鳴だった。
裾を引き裂き、靴を落とし、髪を振り乱し、ただ我先にと飛行船へ殺到する。
つい昨日まで特権階級と胸を張っていた者たちが、着の身着のまま獣のように。
摩天楼がさらに一段崩れ、地鳴りのような轟音が響いた。
その衝撃に背を押されるように、彼らは飛行船に雪崩れ込み、帆を広げて上昇を始める。
――しかし、広場に立つ銀髪の鬼人族は、その姿を静かに見上げていた。
橘花の手にあった大槌がふっと霞み、次の瞬間には黒塗りの和弓が現れる。
矢を番えた弦を引き絞る音が、崩壊の騒音の中でもはっきりと響いた。
「ーー逃がすか」
わずかに吐息と共に放たれた一言。
弓がしなり、矢は陽の光を裂くように放たれた。
それは吸い込まれるように空を駆け、飛行船の動力炉――煌々と光を放つ魔導石の心臓部へと一直線に突き刺さった。
次の瞬間、轟音と共に光が弾ける。
船体を覆う術式の紋が一斉に軋みを上げ、帆布が裂け、浮力を支える魔導炉が炎と煙を吐き出した。
「ど、動力が――!」
「落ちるぞ! まだ高度が……!」
「いやだ、いやだあああ!」
悲鳴が朝陽の昇る空を裂く。
飛行船は高度を保つことができず、横に流されながら墜ちていく。
その姿は、あたかも権力そのものが燃え尽きて落下していく象徴のようだった。
橘花は、飛行船が火を噴いて旧ミヤコの上空、裕福層が住む区画に墜落するのを、無言で見届けた。
勝ち誇るでもなく、怒号を上げるでもなく。
ただ「当然の結果」として。




