第103話
朝の旧ミヤコ。
大通りにはすでに人の気配が満ちていた。店の戸板を外し、商品を並べ、桶に水を張り、煤けた暖簾を掲げる――人間族たちの営みは、一見すればどこにでもある朝の風景だった。
そのただ中を、橘花は歩いていた。
角を隠す布も纏わず、顔を覆う仮面もせず。
ただ鬼人族としての姿のまま、大通りを堂々と進む。
最初、周囲は息を呑んで見守った。
だがすぐにざわめきが広がり、視線は恐れから嫌悪へと転じる。
「なんで……鬼人族が……?!」
「異種族が、どこから入ってきた!?」
「この下等種族がっ!」
罵声が飛ぶ。やがて誰かが小石を投げた。
石は橘花の肩に当たり、乾いた音を立てて転がる。
それを皮切りに一つ、二つと続き、群集心理に煽られるように石を手にする者が次々と出てくる。
力もない者たちの投げる石は、当たっても大した痛みではない。だがその軽さが、却って橘花の胸に重く響いた。
――もう、この街には残っていないのだ。
かつて、異種族と共に歩もうとした人間族たちの姿は。
命を賭して寄り添い、共に笑い合った者たちの温もりは。
橘花の心に、ひどく冷たい風が吹いた。
それでも歩みは止めない。
罵倒が背を刺し、石が頬を掠めても、ただ前を向いて進む。
群集の叫びは次第に狂騒へと変わり、大通りは小さな暴風のようになっていく。
だがその中心を歩く橘花は、ひときわ静かだった。
声を荒げることもなく、眉を吊り上げることもなく。
ただ、摩天楼へと向かう道を一歩ずつ刻んでいた。
橘花の胸の奥で、静かな寂しさが膨らんでいく。
だが同時に、その寂しさは決意を固める焔へと変わりつつあった。
あの摩天楼を崩し去り、人間族の傲慢を終わらせる。
旧ミヤコの大通りは、石と罵声に満ちていた。
けれどその中心を歩く橘花は、誰よりも静かで、そして誰よりも揺るぎなかった。
橘花の進む先には、今まさに葬るべき摩天楼が、冷たい朝日に照らされて聳えている。
橘花の手には、刀ではなく大槌が握られていた。
ついさきほど、武器チェンジで大槌を選択して出したものだ。昔、イベントで一度使ってそのまま死蔵状態だったのだが、また使う日が来るとは。
大槌の艶々した金具部分に自分の顔が映る。顰めっ面だった。
意識せずにそんな顔になっていた、顰めた眉間を指でほぐす。
いつもそうだった。
何かする時は、真面目すぎると言われていた。
鬼人族で侍。気に入ってやり始めたこの組み合わせが不人気だった頃、真面目にゲーム攻略していてなかなか進まなく燻っている時、マノタカに出会い言われたのだ。
『なんだ、その眉顰めて真面目ですっていう面は。ほら、笑う笑う!一番楽しんでるやつが勝つんだから!』
思い出した一瞬、軽快に背中を叩かれた気がした。
ふぅ、と一呼吸する。
そうだ、一番楽しんでやるって決めて、ミブロに入った。
だったら、いつもの私のスタイルで行くだけ。
摩天楼の前。
その威容は朝の光を受けてなお陰鬱で、街を睥睨するようにそびえていた。橘花の足音が石畳に響くたび、役人と衛兵が列をなし、槍を突き出して道を塞ぐ。
橘花は一歩、また一歩と進み、やがてその列の手前で立ち止まった。角を隠さず、銀の髪を風に揺らしながら、腹の底から声を張り上げる。
「五年前の約束だ! 異種族と共に生きると称し、我らミブロから印を奪ってまで掲げた政の正当な返事を、ここで貰おう!」
声は街全体に響き渡った。近くの商人も、子を抱く女も、石を投げた若者も、皆その声の重みに息を呑む。だが――返答はなかった。
役人たちは互いに顔を見合わせ、やがて薄ら笑いを浮かべる。衛兵たちは嘲笑を隠そうともせず、槍を構えたまま動かない。摩天楼の窓から覗く影も、冷めた目で下界を眺めているだけだった。
「…何も変わっていないのか」
橘花の胸に、深い落胆と怒りが混ざり合う。周囲をゆっくりと見回した。そこには恐怖に身をすくめる民衆と、ニヤニヤと優位を疑わない役人たちの姿しかなかった。
「残念だ」
その一言は、重く冷たく、石畳に沈んでいくように響いた。街全体が凍りつく。
橘花は大きく息を吸い込み、吐き出す。瞳には決意の光。
「ここからは押し通る」
呟きと共に、その手の大槌を構える。黒鉄の塊が空気を震わせ、周囲の衛兵たちは思わず後ずさった。橘花は軽く膝を曲げ、次の瞬間、ふわりと宙へと舞い上がる。
見物に集まっていた民衆は思わず声を上げた。銀の髪が朝日に輝き、大槌の影が地面に伸びる。橘花は一直線に摩天楼前の一番高い建物へ飛翔し、その屋根に陣取った。
見上げる視線には、もはや一切の迷いはなかった。
「さぁて――貴族様を、下界に招待しようか」
その顔に浮かんだのは、不敵な笑み。力を隠すことも、言葉で説くことも、もはや不要。
「じゃあ、いくよー!」
摩天楼の最下層。
そこへ再度飛翔し接近する橘花の声は、まるで近所のコンビニに寄るくらいの軽さだった。
摩天楼を守る結界は強固。だが――一層ごとに分割されているのが致命的な穴。
そこに橘花は大槌を振りかぶる。
「せーのっ!」
――すっこーん!
思いの外、軽快な音とともに、摩天楼の最下層が横へと弾かれた。
断面はまるで模型を切ったみたいに滑らか。
ズズーン、と重力に従い上の階が落ちてきて地面に接地。二階だった層が、一階になる。
「もういっちょ!」
――すっこーん!
また二層目が綺麗に抜け、三層目がそのまま落下。
本来の建物と根本的に違うのは、層ごとに結界で守られているため、上階からの自重では潰れない。
巨大な建造物全体を覆う結界が作れず、階層ごとに結界を張り、それを強固な守りとしていた摩天楼。
しかし、ここにそれを突破する奇策師……いや、本来ならゲームでも駄目と言われる方法を取る奴がいたのが敗因だろう。
階層は結界の境目で切り取られるため、崩壊ではなく「積み木を押し出した」かのような異様な光景だった。
見る見るうちに「摩天楼」と呼ばれた巨大建造物が、どんどん小さく、小さくなっていく……。
警備で周りにいた人間族らは、目の前で起きていることが理解できず、リズミカルに飛ばされていく階層をどうすることもできず、見ているしかできないでいた。
作戦決行時に街にいるのは危ないからと、橘花に言われて、朝ごはんを食べたあと攻城戦が始まる前に、全員が旧ミヤコの街から密かに出て、近くの小高い丘に来ていた。
「……本当に、だるま落とししてる」
双眼鏡で見ていたソータが呆然と呟く。
いや、双眼鏡など使わずとも結果は見れた。何せ一段一段、リズムよく巨大な摩天楼が沈んでいくのだから。
ロイヤードやエレン、ウェンツまでも口を開けたまま呆けている。
そんな中、茶々は草の上に敷布をしてのんびりと腰を下ろし、湯を沸かしていた。
「『だるま落とし攻城戦法』……前に攻城戦イベントであれをやってGMから軽くお叱りが来たのよ。攻城戦アイテムの大槌を使用しての合法的攻略だったからその時は注意で済んだけど、真似されないように公式で大々的にダメって宣言されたの。でも、こういうことに長けた橘花さんがいれば、戦闘面では苦労しないのよね」
手には湯呑み。傍らには和菓子。まるでピクニックである。
リズミカルに「ズズーン、ズズーン」と落下していく摩天楼。
まるでお祭りの演出のように見える。
「わたしもリュートも、あんなの見たことないけど……」
イサミがプルプル震えつつ、沈んでいく摩天楼を指差しながら言うと、「そりゃ、あなた達をもらう前の出来事だもの。橘花さん、意外にヤンチャなのよ?」と悪戯っぽく笑う茶々。
茶々以外の全員、『橘花が言っていた「危ない」って、こう言うことか』と納得する。異種族が何かやらかしたら、その余波は周りの異種族に来る。だから街から出るよう言われたのかと思っていたが。
確かに街の上に破片が飛んできたら、本当に危ない戦法である。
――すっこーん!
鳴り響く軽快な音に似合わず、階層が放られた積み木のように空を舞っていく。
その様は、まるで神の手で「建物ジェンガ」をしているかのようだった。
誰もが見ていた。
誰もが理解できなかった。
ただ一つ、誰もが悟った。
この異種族……いやこの人は、怒らせちゃいかなかったのだと。




