第102話
夜の余韻を残したまま、茶々の拠点は朝を迎えた。
冷えた空気の中、最初に動き出したのは橘花だった。
「……さて、まずは腹ごしらえだな」
橘花はひとりで立ち上がり、ストレージを開く。そこから次々と取り出されたのは米、肉、野菜、卵、果ては調味料の瓶まで――。気づけば畳の上は市場の屋台でも開けそうな物資の山になっていた。
囲炉裏の部屋ではウェンツたち四人がまだ寝息を立てている。だが橘花はよくわかっていた。昨日の食べっぷりで予想がついた。――こいつら、想像を超えて食う。しかも異常なほどに。
寝床まで提供してもらっておいて、エンゲル指数がおかしな爆食具合の中高生の朝ごはんまでお願いするなど、橘花にはできないし、茶々たちにそんな負担をさせるわけにはいかない。
昨日のうちに使用許可を取った台所で、橘花は腕まくりをした。
寝ぼけ眼でリュートが慌てて「ぼ、僕がやります!」と飛び起きてきたが、橘花は首を振って笑う。
「迷惑料だと思ってくれ。それに、昨日は四人の面倒を見て遅かったろう? いいから寝てろ。こればっかりは私の方が慣れてる。給食当番のプロってやつだ」
そう言うや否や、まるで戦場で敵陣を突破するかのような勢いで作業に取りかかった。
大鍋を火にかけ、次々に食材を放り込み、切る、焼く、混ぜる――その動きに一切の無駄がない。鍋の蓋を開けて味見をしながら、フライパンを同時に操り、さらにまな板では包丁が小気味よくリズムを刻む。
「はいはい、次はこっち煮えてるな……おっと、焦げる前にひっくり返してっと」
独り言が厨房に響く。その姿は――鬼人族の猛者であるはずなのに、どう見ても学校給食室にいるおばちゃんである。
ふと寝ぼけ眼で覗いたロイヤードがぽつりと漏らした。
「……な、なんだあれ。戦場の侍っていうより、炊き出しのおばさんじゃねぇか」
隣で目を擦るソータも口を開ける。
「うわ……すごい。橘花さん、あんな風にご飯作ってたんだ」
やがて、香ばしい匂いが拠点全体を包み込む。
茶々が静かに目を覚まし、台所の光景を見て一瞬だけ目を瞬かせた。
長い夜の余韻をわずかに引きずっていた彼女の顔に、思わず小さな笑みが浮かぶ。
「……橘花さん。あなた、本当になんでもできるのね」
返事をする橘花は、ご飯の大釜をかき混ぜながら振り返る。
「なんでもは無理。でも、弟の月の友人たちが泊まった時を思い出せば、これくらいやるのは訳ないよ!」
――こうして、廃寺に似つかわしくないほど豪華で温かい朝食が、威勢のいい調理音とともに完成していった。
食卓に並んだ朝食は、どう見ても廃寺の台所で出す水準をはるかに超えていた。
白米はつややかに立ち上がり、味噌汁は出汁の香りが鼻をくすぐり、焼き魚は皮がパリッと焼き上げられている。副菜も小鉢もずらりと並び、見た目にも色鮮やかだ。
ただし、今いる人数で本当に食べ切れるかわからないと思える量がある。
「いただきますっ!」
全員が席につき、手と声を合わせて食事を始めた。
まず初めに目をこすりながら四人の男性(中身は中高生)が、一口食べた瞬間に目を見開いた。
「やっぱり橘花さんのご飯うまー!」
「魚の焼き加減とか、最高です!」
ロイヤードやウェンツが競うように茶碗を持ち上げて、おかずと共に掻き込み始める。次いでソータとエレンが、自分のおかずに口をつける。
そこからはもう戦場だった。全員箸を止めず、口いっぱいに頬張りながら次の皿へ、さらに次の皿へと突撃を繰り返す。
「落ち着け、まだたんまりあるから!」と橘花が声をかけても、まるで聞こえていない。
四人の中でも、静かに食べ進めるエレンが脅威だ。もぐもぐと幸せそうに頬張りながら、頬がほんのり紅潮している。
ゆっくり食べているようで、実は四人の中で食べる量も早さもダントツ一番なのは彼だ。
けれど、一度に大量に取ってくることはなく、“お代わり”するのが好きらしい。
――それだけで、エレンにとっては幸福なことだったりする。
そして、茶々。
慎ましく箸をつけて一口、二口……すると、ふっと目を細めた。
「橘花さん。これは本当に、見事なお味ですわ」
その声には忖度など一切ない。生き抜くために味やご飯に妥協してきた五年間を知る茶々だからこそ、その真価を噛み締めるように褒めていた。
イサミも最初は「戦闘バカが作った食事が美味しいわけが……」と口を尖らせていたが、一口食べてからというもの、表情がコロッと変わった。
「……ちょ、ちょっと待って。なにこれ、うま……っ!」
彼女はもぐもぐしながら頬を赤くしている。
「くっ……なんでわたしの作るご飯より美味しいのよ!」
イサミは焼き魚が大変お気に召したらしく、尻尾の感情表現が忙しい。その様子に橘花は肩をすくめるだけだった。
そして極めつけは、リュートである。
食べ始めた瞬間に箸を持つ手が震え、目尻から涙がこぼれた。
「ご主人様の……ご飯……っ。美味しいれす……!」
ぼたぼた涙を落としながら、必死にかき込むリュート。
米粒が頬につこうがお構いなし。鼻をすすりながら、それでも止められない。
見ていたロイヤードが思わずぼやいた。
「……おいおい。泣きながら食う飯なんてあるかよ」
ソータが口の端を拭いながら笑う。
「あるんだよ。だって、橘花さんの作るご飯は……美味しいから」
廃寺の朝は、笑い声と食器の音で満ちていた。
昨日までの重苦しい空気を吹き飛ばすように、みんなが夢中になって食べ続ける。
橘花はご飯を分けるために大釜を抱えたまま、ふっと小さく呟いた。
「……やっぱり、エンゲル指数おかしいよな」
⸻
旧ミヤコの中心にそびえ立つ摩天楼。
段階的に積み重なるその巨躯は、侵入者を拒むかのように高く、厚く、重々しく鎮座していた。
貴族の居室は最上階。出入りは飛行船による空路のみ。
下層の入口というより、付属のように外付けで警備の人間がつめている建物はあるが、誰も近づかないためか最低限の警備しか配置されておらず、さらに鉄の侵略者の残骸を再利用した機械仕掛けの防御が幾重にも施されていた。
「……なんだこれ。PAOにこんなギミック、あったっけ?」
寺の屋根に登り、双眼鏡で摩天楼と呼ばれる建物を見ていた橘花がそれをストレージに仕舞う。屋根から降りて再度見上げながら首を傾げると、下で待っていた茶々は重苦しい顔で答えた。
「鉄の侵略者の残骸を改造したものよ。外見はただの鉄の要塞ね。……気分のいいものではないわ」
勝ち取ったはずの平和の残骸が、いま再び茶々たちを苦しめる道具となっている。
この五年、茶々は泣き寝入りしているわけではなかった。調査を重ね、この摩天楼の構造も結界の仕組みも把握していた。だが、どうしても突破の糸口を見つけられずにいた。
「異種族へ圧政を敷いているのは人間族の貴族だから、ここで止めなければ他の地域でも、それが当たり前として広がるわ」
茶々の声には、ミブロの意地がまだ残っていた。
しかし橘花は、顎に手を当ててじっと摩天楼を見上げ、ぽつりと言った。
「これって、攻城戦だよね」
「……そうね」
真剣な返答をした茶々の横で、橘花の口角がぐいっと上がる。
「なら、あれを使うしかないな」
その笑みを見た瞬間、茶々は嫌な予感に少しだけ眉を顰めた。
「橘花さん……まさか」
「おー、茶々さん覚えてる? あの戦法」
あの戦法。
――過去、ミヤコの大型イベントで行われた籠城戦。プレイヤーたちが城を落とせずに膠着状態になった時、橘花が仕掛けた奇天烈な戦術。
動画が拡散され、ニュースになり、全員が一斉に「なんだこりゃ!?」と叫んだ、伝説の攻城戦。
茶々は両手で顔を覆った。
「……今まで積み上げてきた調査が、水泡に帰る気しかしないのだけれど」
「いやいや! 正面突破が無理なら、奇策でいくしかないって!」
子どもが悪戯を思いついたように笑う橘花。
隣で聞いていたウェンツたちは首を傾げる。
「橘花さん、何するつもりなんです?」
「……これ、また伝説になる予感しかしない!」
ソータが嬉しそうに手持ちドローンの準備を始める。それを見ていたウェンツたちは「なんか始めたよ」と呆れ顔で見ていた。
「何するって攻城戦だよ。立派な戦法だから、期待してて!」
自信満々の不敵な笑みを浮かべる橘花。
真剣な攻城戦――のはずが、次に繰り広げられるのは、誰も予想しないシュールで奇天烈な戦法だった。




