第99話
大きくなった我が子のような存在に、橘花は顔を綻ばせながら二人を抱きしめる。
リュートは大人しくされるがままなのだが、ツンデレなイサミは恥ずかしがりながら若干抵抗してきた。
「それより、あんな弱い人間族しか仲間にできないって、橘花の人心掌握術も大したことがないのね!」
フンッ、とツンツンした態度のイサミ。
「私、そんなの使ってないけど?」
「そうですよ、イサミ。そんなことしなくても、ご主人様の人柄に皆が集まってくるんですよ!」
「ちょっと待とうか、リュート。お前も”ご主人様”とか言わないの。名前呼びにさせてたはずなんだけどな……」
「そんな! では、なんとお呼びすれば……」
「いや、だから名前で呼んでくれ」
家族のような会話が交わされ、橘花が庭で騒いでいた気配が落ち着いたのに遅れて気づくと、抱きしめていた二人を放し、これは言っておかなければと茶々の方へいく。
「そうだ、茶々さん……あの四人、向こうからの移転してきた中身は中高生の子たちだから、こっちの人間族みたいに警戒しなくて大丈夫だよ」
こっそり耳打ちされ、茶々は驚きながらも四人に視線を向けて短く言った。
「橘花さんを助けてここまできてくれた子達なのね。リュート、イサミ。この方々をおもてなしして差し上げて」
リュートとイサミが同時に「はい」と頷き、まだ嬉しさの余韻を残した顔で、四人を客間へ案内しようと動く。
ロイヤードが何か口を挟もうならイサミから「これからミブロの隊長同士の話するんだから、大人しく着いてくるの!」と先ほどの態度よりは軟化した言葉をかけられる。
ウェンツもロイヤードも、エレンもソータも、橘花に何か声をかけたそうにしていたが、空気を読んだのだろう。彼らは静かに従った。
――ミブロの生き残り。
彼らにとって今目の前で起きている再会は、自分たちが割り込むべきものではないと。
四人がイサミ達に連れられて別な部屋に姿が消えると、廊下に二人きりになった瞬間、橘花は茶々の背を見つめる。
白い着流しに包まれた背中は、五年前の彼女の面影を留めながらも、凛とした気配を纏っている。
昔の茶々は、芯の強さの奥に少女らしい柔らかさを持っていた。
橘花と違い、課金はほぼしない無課金勢ではあったが、ドロップしたアイテムで気に入った蝶の透かしの簪をいつもつけて、街の露店に並ぶアイテムに「可愛い」と目を輝かせる無邪気な一面も持っていた。
オフ会でも笑うと可愛い静かな大人の女性だったのを覚えている。
同じ女性の橘花から見ても、可憐で、儚げで、守りたくなるような――そんな雰囲気。
けれど今は違う。
角のある横顔は静謐で、背筋はまっすぐに伸び、声はよく響く。
五年という歳月が、彼女を「可愛い」から「美しい」へと変えていた。
橘花は歩きながら、心の奥で小さく呟く。
(……変わったな、茶々さん。でも、当然か。五年もあれば人は変わる)
「橘花さん、奥の間で少し話をしましょう」
茶々に案内され、橘花は屋敷の一番奥に位置するであろう一室に入った。
茶々は何も言わず、懐から札を取り出す。指先で印を切り、低く呪を唱えた。淡い光が空間を覆い、防音結界が張られる。
「……結界」
橘花は目を細めた。
思い出す。
かつて自分が「札を使いたい」と駄々をこね、呪術師の茶々を困らせたことを。
ミブロに入る際、彼女は侍に転職していたが、二次職解放の時には迷わず呪術師をセットした。
あの頃と同じ札。あの頃と同じ指先。けれど、その表情はどこか遠い。
茶々は座り、橘花に向き直った。
「さて、どこから話せばいいのかしら」
少し考え込むように目を伏せ、それから静かに続ける。
「……五年前。私は気がつけば、この地にいたの」
「転移……したの?」
橘花の問いに、茶々は小さく首を振る。
「そう言っていいのか、私にもわからない。気づいたら“こちら側”にいた」
そこで言葉を詰まらせる。唇が震え、細い指先が着物の裾を握りしめた。
橘花の胸が痛んだ。
あの日、自分は“あちら側”にいた。けれど、こちらでの五年前にあった話を聞く限り、同じ時間を過ごしたNPCの隊員たちは――。
「……茶々さん」
思わず声をかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。
「橘花さん。私は、あの日から生きるためにずっと戦ってきた。鉄の侵略者を退けたのに、次は人間族からの迫害が始まって……ミヤコに残った者たちを守るために、異種族の血を引く子どもたちを匿い、人間族の目から隠すために」
淡々と語られる言葉の端々に、重たい時間の影が滲む。
五年――橘花にとっては想像するだけで息苦しい年月。
茶々の瞳が、真正面から橘花を射抜いた。
まるで試すように、あるいは縋るように。
「橘花さん……あなたは、この五年間、どこにいたの?」
問いかけは静かだった。だが、その静けさの奥に張り詰めた緊張が潜んでいた。
橘花は息を整え、低く答えた。
「……五年前。あの日に、ここへ来たのは茶々さんだけだと思う」
茶々の瞳が微かに揺れる。
「私が転移したのは……つい最近なんだ」
言葉を切りながら、慎重に続けた。
「だから私は、この世界での五年間を知らない。気づいた時には……この世界に来ていた」
茶々はじっと橘花を見つめていた。
長い沈黙が落ちる。結界に閉ざされた部屋は、二人の呼吸音だけが響く。
やがて――茶々は、ほんのわずかに唇を動かした。
「……そう」
その声には落胆も驚きもなかった。ただ、淡々と受け入れるような響き。
けれど、彼女の口元に浮かんだのは、笑みと呼ぶにはあまりに薄いものだった。
「五年……ずっと、私だけだったのね」
小さく零す。
その笑みは、諦めに似ていた。
希望を繋いできた者が最後にたどり着く、自己をあざ笑うような笑み。
強がりの仮面。悲しみを隠すために貼り付けた、痛ましい微笑。
橘花は胸の奥が軋むように痛んだ。
――茶々は、この五年間を独りで背負ってきたのだ。
自分は、遅れてここに来た。
「茶々さん……」
声をかけたくても、適切な言葉が見つからない。
茶々はただ静かに首を振り、その薄い笑みを顔に留めたまま、目を逸らした。
「なんとなくわかっていたの、自分だけだろうって……」
あのね、と茶々は痛みを噛み殺すように口を開いた。
「あの日、夫が予定より早く帰ってきてね。ダイブギアを外すのが遅れたの。『俺の金で遊びやがって』って、殴りつけられて……倒れたあと、意識が薄れていく中で、あの人が部屋を荒らして物を壊す音だけが耳に残ってた」
一旦、言葉は途切れた。だが、そこに込められた重みはあまりに明確だった。
――その時点で、茶々は現実世界で命を落としたのではないか。
橘花の胸に、ぞくりと冷たい推測がよぎる。
「気がついたら、こっちで”茶々”になっていたの。弾みでログインしたのかと思ったのよ。けれど、ログアウトはどこにもない。そうしてしばらく過ごしていたら……大戦が起きたの」
それから語られたのは、地獄だった。
「みんなはいないし、ミブロの隊長格は私だけ。他の種族から頼られて、気がつけば“総大将”をやれって……全部流されるままに引き受けてた」
他人事のように語る口調。だが、それは感情を込めれば、自らの心が決壊することを知っているからだ。
「号令をかければ、仲間は突撃して行った。私も戦おうとしたけど……右腕と左脚に被弾して、動けなくなった。リュートとイサミが命懸けで、戦場から私を引きずり出してくれたの」
その瞬間、抑え込んでいたものが堰を切った。
頬を伝う涙。けれど、茶々はなおも平然を装おうとする。
橘花は堪えられず、その肩を抱きしめた。抱き寄せられた途端、茶々はもう、耐えられなかった。
「攻撃特化のマノタカさんも、橘花もいなくて……ひっく、私ひとりでぇ……! 私も攻撃特化だったら、みんなを守れたのに! 突撃なんて、させなくて済んだのにぃぃぃっ……!」
嗚咽に言葉が途切れる。
悔しさとやり場のない怒り、やり切れなさが一気に溢れ出す。
それは五年間、総大将として仲間を死地へ送った女の矜持と意地が、崩れ去った瞬間だった。
“総大将”ではなく、一人のプレイヤー――ただの茶々としての嘆き。
橘花の胸に縋りつき、茶々は子どものように泣きじゃくる。
その涙は、ずっと張り続けていた仮面を溶かすものだった。




