第98話
橘花と狼獣人の青年のせいで庭に張り詰めていた殺気を、ひとすじの声が断ち切る。
「そこまでっ!」
凛とした女の声だった。
まるで月の光に溶け込むような静けさと、それでいて一切の逆らいを許さぬ威厳を帯びている。
橘花が刀を構えたまま、思わずその声に耳を傾けていると、声の主は橘花に向けて話しかけてきた。
「あなたがここに入れた理由はわかりませんが……何も見なかったことにして、帰っていただけませんか?」
「駄目です! この侵入者は許せませんっ!」
狼獣人の青年が吠えるように声を張った。
血走った瞳。怒りが燃え尽きることを知らぬと言うように橘花を睨んでいる。
しかし、声の主は青年を諌めた。
「落ち着きなさい。無益な戦いを続けてどうするのです」
その姿が、月明かりの下に現れた。
背中まである赤茶色の髪を左側にまとめて白い着流しを纏い、背筋をすっと伸ばした女性。
肌は宍色、額から伸びた二つの黒い角を持つその姿――鬼人族。
橘花の心臓が大きく鳴った。
この世界に来て初めて見た、同じ種族の者。
だがそれだけではない。
顔を、声を、仕草を――忘れるはずもなかった。
「……茶々さん」
思わず零れ落ちた名に、場の空気に再び緊張感が走る。
女は冷たく目を細めた。
「……何故、私の名を?」
橘花は、ハッとした。
そうだ、今の自分はゲーム時代のアバターそのままとはいえ顔を隠し、声も男の物に変わっている。
このままでは信じてもらえるはずがない。
ゆっくりと手を伸ばし、紫頭巾を取った。
「……私、橘花だよ。わかる?」
月光に照らされたその顔を見た瞬間、茶々と狼獣人青年は息を呑んだ。
「……橘花、さん……?」
茶々の声は震えていた。
「うん。声はちょっと違うけど……ミブロの橘花だよ」
その言葉が決定打だった。
茶々の表情はぐらりと揺れ、今にも泣き崩れそうな顔へと変わる。
強い意志で保っていた冷たさが、崩れ落ちる。
あまりに現実離れした再会に、橘花の方が戸惑いを覚える。
――夢じゃないのか? 本当に?
そのときだった。
「お土産持って来たよー!」
あまりに場違いな、呑気な声が響いた。
視線を向けると――そこにいた。
廃寺の扉の外にいたはずのウェンツたち。
四人は揃って地面に転がされ、捕縛綱にぐるぐる巻きにされている。
声を上げることもできず、橘花を見つけた瞳だけが必死に助けを訴えていた。
「……っ!」
橘花は慌てて茶々へ向き直る。
「ごめん! この子たち、私に協力してくれた仲間なんだ。解放してやってくれないか?」
茶々はまだ涙を堪える顔で、静かに頷いた。
猫獣人の女性が茶々の目配せに「せっかく捕まえたのに」と渋々……というより、物凄く嫌々、縄を解く。
彼らを縛っていた縄がふっと解け、四人は自由を取り戻す。
「助かったー……」そう漏らしたロイヤードの言葉が、全員の心を代表していた。
猫獣人の女性は、捕らえた獲物を誇る優位な雰囲気と鋭い瞳で橘花を睨み据えていた。
なんで睨まれているか分からないが、今すぐ戦闘になるわけではないと判断して、橘花は茶々に意識を戻す。
「よかった。また会えて……」
「うん、茶々さんも無事でよかった」
お互い五年振りの会話だ。
ある日、ログインしてこなくなって久しい茶々がこうして目の前に立ち、元気でいることに安堵する。
それでも毅然として対応しようとする姿は、以前と変わらぬ大和撫子そのままだ。
目の前で涙ぐむ茶々に気を取られていた橘花は、ふといつのまにか側に来た獣人の二人へ視線を移した。
すでに怒りが鎮火した狼獣人の青年と、まだ睨む瞳を向けてくる猫獣人の女性。
――だが、どちらも記憶にない。
鬼人族の同胞ならともかく、見知らぬ獣人族がどうしてここにいるのか。
橘花は小さく首を傾げた。
次の瞬間。
「馬鹿だとは思ってたけど、記憶まで飛んでるのかしら?」
「五年会わなかっただけで、忘れるなんて酷いですよ」
同時に二つの影が飛びかかった。
殺意のない跳躍――抱きつくように、縋りつくように。
「わっ!」
橘花は反射的に刀を構えかけて、間一髪で止めた。
胸倉をがしっと掴んで揺さぶる猫獣人の女性。
そして、腕にしがみついて顔を押し付ける狼獣人の青年。
困惑する橘花に、彼らはさらに言葉を投げつける。
「忘れるなんて最低! 名前つけてもらったの知ってる癖に!」
「僕を拾ってくれたのに……酷いですよ、ご主人様」
ご主人様。
その呼び方に、橘花の脳裏に一気に去来する記憶。
(待て。拾った? 名付けを知ってる? ご主人様?)
頭の奥で、ひとつの可能性が閃く。
かつてのゲームの中。傍らに仕え、行動を支えてくれた存在。
胸を揺すぶられながら、橘花は呟くように答えを口にした。
「……リュートと、イサミ……か?」
その言葉に、二人の獣人はぴたりと動きを止める。
橘花の目をまっすぐに見上げ――そして、破顔した。
「ようやく思い出したのね! ほんと馬鹿なんだから!」
猫獣人――イサミは声を荒げながらも、目尻を赤く染める。
「そうです、僕です。リュートです。覚えてくれて嬉しい」
狼獣人の青年――リュートは、抱きついたまま柔らかな笑みを浮かべていた。
イサミはツンと澄ました気丈さを残しながら、背丈も声も少女から大人の女性へと育っている。
リュートもまた、少年の面影を残しつつ逞しい青年に成長していた。
だが、性格の芯は変わらない。
イサミはマノタカが設定した“ツンデレ”の性格。
リュートは橘花のお助けAIで“真面目”な性格。
その振る舞いが今もなお、彼らの全身から溢れていた。
揺さぶられながら、橘花は思わず笑ってしまった。
「……そっか。五年も経てば、そりゃ十三歳設定の子どもも、こんな立派になるわけだ」
苦笑と共に呟くと、イサミは顔を真っ赤にしてさらに揺すってきた。
「馬鹿! 今更そんなこと言わなくていいの!」
一方のリュートは逆に抱きつく力を強める。
「ご主人様……また会えて、本当に良かった……」
橘花は、ぐっと目頭が熱くなるのを感じた。
この子たちは、確かに自分の傍らにいた。
かつて画面越しに過ごしたはずの仲間が、今こうして現実に存在している。
昼間、ミブロの拠点の目ぼしい物は持ち去られ廃墟となっている様を見た時、愕然とし、次に湧いてきたのは怒りと哀しみと、仲間との絆を断ち切られたような喪失感。
たかがゲームと言われれば、それまでだが、仲間達と試行錯誤の末に完成させた拠点だ。
思い入れは、それはもう詰め込みまくっている。
だから、ソロ時代の大事なNPCを門番としてミブロに譲渡したし、NPC隊員のレベル上げを率先してやっていた。
もうミヤコには何も残っていないのだと、そう思っていた。
けれど。
――夢じゃない。
そう心の奥で確信した瞬間、胸に広がる感情は、喜びと懐かしさでいっぱいになった。




