第92話
翌日、橘花は宿をきちんと整理して引き払った。
余計な痕跡を残さない。それがこの街を守るためにも、自分のためにも必要だ。
門のところでは、ラウトが心配そうな顔をして立っていた。だが何も言わない。ただ、静かに見送る。
――貴族が絡んでいるとなれば、どこに被害が及ぶかわからない。下手に関わらせない方がいい。
橘花はそう判断して、ひとりで歩き出した。
向かう先は旧ミヤコ。アルミルから馬車は出ていないし、情報では旧ミヤコ行きは危険で交通が制限されているらしい。
徒歩確定だが、ゲームだと当たり前なことだったので自分の速度で目的地まで悠々と進む。お昼を回ったあたりで休憩しようと周囲を確認するために、ふと簡易マップに視線を落とす。
そこに――小さな影が映った。
「……はぁ」
思わずため息が漏れる。
足を止め、ゆっくりと振り返った。
そこには何もない。けれど、気配は確かに感じ取れている。
「昨日、わかったって納得したんじゃなかったの?」
虚空に向けて声をかけると、しばらく沈黙が流れ――やがて、岩陰からおずおずと姿を現したのは、ウェンツたち四人だった。
「橘花さんの意見はわかりました。でも……僕らみんな、橘花さんの力になりたくて」
ウェンツが先に口を開いた。
「俺たちもだけど、橘花さんを心配してる人はいるだろ。だから、同じ言葉を返すようだけど……心配してる人がいるんだから、橘花さんも帰らなきゃ」
続けるロイヤードの声は、真剣そのものだ。
「……一緒に帰った方が、オレたちも心残りがないから」
エレンは短く、それでいて重い言葉を口にした。
そして最後にソータが、にっこりと笑って言った。
「みんなで一緒に帰りましょう、橘花さん」
四人の瞳はまっすぐで、迷いがなかった。
橘花は、肩をすくめて小さく苦笑する。
「まったく……もしかしたら戦闘になる可能性が高いのに、何で来ちゃうかなぁ」
言葉は呆れたようでも、その胸の奥はじんわりと温かくなっていた。
――自分のために、ここまで言ってくれる仲間がいる。
その事実が、橘花の心を支えていた。
気づけば、胸の奥に溜まっていた重さが、少しだけ軽くなっていた。
これまでは、ひとりで背負うのが当然だと思っていた。
背負わなければ、誰かが傷つく。だから、自分が前に立つしかない。
けれど、目の前の四人は違った。
「一緒に帰ろう」と言ってくれる。
その声には、依存や甘えではなく、自分と肩を並べる覚悟が宿っていた。
――背中を預けられる相手がいる。
その事実に、橘花は静かに息を吐いた。
仲間と呼べる存在を得たのは、もしかしたら初めてかもしれない。
「……わかったよ。勝手についてきた以上、もう知らないからな」
あえてぶっきらぼうに言い捨てると、四人の顔にぱっと笑みが咲いた。
その笑顔に、橘花は再び苦笑する。
――本当に、しょうがないやつらだ。
けれど、不思議とその背は軽くなっていた。
休憩後、方角は合っているはずだが、何故かモンスターの出現率も上がり、草は生え放題で街道の整備がされていないのがわかる。
この先、本当に街があるのかさえ疑いたくなる荒れ具合の街道が続いているのだ。
それでもしばらく歩いていくと、旧ミヤコに続くらしき石畳が見え始め、ようやっと人の気配が感じられるようになった。
「道が悪いから迂回とかして、4日はかかるって聞いたんだけどな」
「野宿もなしに着けそうですね」
「別な街…ではなさそう」
橘花とウェンツの言葉に、エレンが見つけた「ミヤコ」と書かれた朽ちかけている道案内が指し示す方角を見ると、うっすらと遠目で街があるのがわかる。
橘花は一度立ち止まり、懐から深い紫色の頭巾を取り出す。すっぽりと頭からかぶると、顔の半分が覆われた。
「……やっぱり、面が割れたら面倒だからね」
呟きながら布の端を結ぶ。その仕草はどこか不器用だが、正体を隠すには十分だった。
「なんだか、昔の時代劇にもいましたよね、こういう侍!」
キャッキャとした声が背後から飛ぶ。振り向けば、ソータが楽しそうに手を叩いていた。
「やめてくれよ、それかなり昔の時代劇のヤツだろ? あれ、悪党ポジションだから」
橘花の言葉に、悪役の橘花を想像したロイヤードが口を押さえて笑いを堪える。
「ははっ、でも似合ってますよ!」
しかしエレンが笑ってしまい、ウェンツも苦笑いを浮かべた。
場の空気は少しだけ和らぐ。だが、橘花はその紫頭巾を直しながら、低く言い放った。
「笑っていられるのは今のうちだ。……ここから先は、本当に敵地だぞ」
四人の笑みが引き締まり、表情が真剣さを帯びる。
緊張感と軽口が同居するまま、彼らは旧ミヤコの影に足を踏み入れた。
⸻
城壁の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
旧ミヤコの街並みは、一見すれば整然として美しい。磨かれた石畳、整然と並ぶ建物。だが、その均整の裏側に潜むものは、外から見た者にすぐ伝わってくる。
――冷たい視線。
通りを歩く橘花たちに、人々の目が一斉に注がれる。
人間族の男が腕を組んで睨みつけ、女は子を抱き寄せて道の端へ避ける。
子供ですら「見ちゃいけません」と母親に引かれて去っていった。
「……なに、この感じ」
ソータが小声で呟いた。普段は明るい声も、ここでは妙に響く。
「人間族以外は“異物”ってわけか」
ロイヤードの拳に力がこもる。
よく見れば、広場には告知板があり、そこには大きく文字が記されていた。
《市内にて異種族を匿った者は処罰の対象となる》
「……徹底してるな」
ウェンツが顔をしかめる。
橘花は紫頭巾の下から冷たい視線を返すだけだった。
この街は、まるで異種族を拒むために存在しているかのようだ。
道の端には、鎧を着た監視兵が等間隔で立っていた。
無言で通りを見張り、通る者の顔を一人ずつ確認する。
――異種族の痕跡がないかどうか。
「……なるほど。侵入じゃなく、“異端者狩りの網に自ら入った”ってわけか」
橘花は胸中で呟いた。
市場に足を踏み入れると、整然とした露店が並んでいた。だが、橘花たちはすぐに違和感を覚えた。
「……果物も、穀物も、肉も。どれも“人間族の農地”や“人間族の牧場”の名前ばかりだな」
橘花が低く呟く。
品物の札には誇らしげに「純粋人間族生産」と書かれている。
それ以外の生産者や産地を示す品は、一切並んでいなかった。
「薬草は? 魔獣由来の素材は?」
エレンがきょろきょろと見回すが、どこにも見当たらない。
露店の親父が鼻で笑った。
「そんなもん扱うかよ。あんな汚らわしいもん、口にするだけで穢れる」
「……っ」
ロイヤードの眉が釣り上がったが、橘花が軽く肩を押さえた。
「やめとけ。ここで怒鳴ったら、兵がすっ飛んでくる」
紫頭巾の下で緑の瞳が鋭く光る。
ちょうどその時、別の露店にひとりの旅人風の男が近づいた。
手にしていたのは、鮮やかな青色の布切れ――明らかに異種族の織物だ。
店主はそれを見るなり顔をしかめ、怒鳴りつけた。
「そんなもの持ち込むなッ! お前、どこで手に入れた!」
周囲の客たちがざわめき、視線が旅人に集中する。
次の瞬間、近くにいた監視兵が駆け寄ってきた。
「異種族の物資を取引しようとしたな?」
問答無用で腕を掴まれ、旅人は必死に否定していたが、そのまま引きずられていく。
「……っ」
ウェンツが息を呑む。
市場に再び静けさが戻ったとき、橘花はただ一言、低く漏らした。
「徹底してやがるな」
その声には、怒りと呆れが入り混じっていた。




