INPUT
「ああっ、もう!」
小さく呟き、桐谷灯子はいらだたしげに画面上のデータを消す。
何度やってもワード上にうまく図を載せられない。
エクセルはともかく、ワードでの文書作成などめったにしたことがなかっただけに、このざまだ。一々ネットで使い方を探すのもいい加減面倒くさくなってきた。
時間はもうすぐ九時になるところだ。『これ客先へのご案内。明日の9時までにワードで頼む』と終業間際に仕事を押し付けてくれた班長は、すでに帰宅していた。
パーテーションの向こう、ほかの部署にはまだ電気がついているけれど、灯子がいる資材管理課はもう誰もいない。明日の9時までだなんて、今日中にやっておけと言っているのと同じだ。それが、たかだか8枚程度の文書にこれほど残業する羽目になるとは、さすがの灯子も頭を抱えたくなる。
今年で27歳、大卒で就職5年目、彼氏なし、独身。今のところ、仕事が恋人。
程よく仕事にも慣れて、一段階上のレベルを要求されるようになってきて、会社に来るのが楽しくて仕方がない。
班長の要求にも日々必死に応えて、残業もこなす。取引先とのやり取りもすっかり板についた。けれど、やはり女性であるということで舐めてかかる男はどこの世界にもいる。それに負けないように、肩肘張っていることは自分でも認めている。
いわゆる、『かわいくない女』。
元々がさつな性格のせいなのか、セクハラまがいの軽口やからかいも動じない。それどころか周りの男性社員に、「お前性別間違って生まれてきたんじゃねぇの?」と言われるほど、下品な切り返しも日常茶飯事。すっかり男連中になじんだ今のポジションは、でも、気を使わなくていい分心地いい。
おかげで、顔やスタイルはそれほど悪くはないと思うが、会社に入ってから男にはとんと縁がない。
それを嘆くほど切羽詰まってるわけでもなし、と、灯子は今の状況がまあまあ気に入ってもいた。
管理ツールやマクロの構築、プレゼン資料の作成などはお手の物なのに、ワードは全くからっきしだめだなんて、普段大きな顔をして資料作成を請け負っているくせに、誰に言えるだろう。ようやく諦めが付いた時にはもうみんな帰ってしまっていて、誰にも聞けないときた。
ぬるくなったペットボトルのお茶をぐいっとあおり、灯子はぎしりといすの背もたれに体を預け、大きく伸びをした。最後のチェックは明日の朝一に出勤してやるとしても、とりあえず最後まで作らないと話にならないというのに。
細いフレームのメガネをはずしてデスクに置き、画面の見すぎでしぱしぱする目を閉じて眉間を揉み解す。
「今日中にできんのかしら、これ……」
珍しく気弱なセリフを吐いたとき、がちゃりとドアが開いた。
慌ててめがねをかけ直し、そちらを向くと。
「あれ、灯子さん、まだいたんですか」
少し高めのハスキーな声に、どきりと心臓が自己主張した。
身長は高すぎず低すぎず、細身の体に黒のトレンチを着こなし、カートを引いて紙袋を二つ持った彼は。
灯子の3つ下の後輩、佐野陽斗。
柔らかそうな髪を軽く整え、愛嬌のある童顔で、なかなかに女子人気が高い彼は、灯子と同じ班の顧客担当だ。割と器用で何でもそつなくこなす裏で、努力家であることは知っている。
席が隣で、多分部内で一番良く会話をする男性社員は彼だろう。普段から、コーヒーやおやつを奢り奢られ、なんてことも、陽斗とはなぜか日常茶飯事になっている。仲のいい先輩後輩として、自他共に認めている相手でもあった。
確か昨日からメーカーの工場数社を訪問する出張に出ていたはずだ。スケジュールボードは『直帰』にマグネットが付いている。わざわざここに顔を出すなんて、何かあったのだろうか。
「どうしたの、こんな時間に。直帰じゃないの?」
「お土産、明日持ってくるの面倒で、ここに置いていこうと思って。会社に車置いてたから、どうせ来なきゃいけなかったし。それより、こんな時間までって、こっちのセリフですよ。どうしたんですか?」
持っていた紙袋二つをどさりと自分のデスクに置きながらにこやかに問われて、言葉に詰まる。
陽斗の入社当時、新人教育に当たったのは灯子だ。ささやかなプライドが邪魔して、つい言葉を濁した。
「あー、まぁ、ちょっとね」
「えー、なんですか?」
「ちょ、勝手に見るんじゃないわよ!」
画面を隠す暇もなく、背中から覗き込まれた。
「ああ、ワードですか。で?」
ばれたのなら仕方がない。観念して、灯子はそっとため息をこぼす。
「ええと、この画像を入れたいんだけど、どうしても行間に入っちゃって……。ワードって普段使わないから手間取ってるのよ」
「なら手伝いますよ。ワード少しはわかるんで。まず画像入れてみてください」
こともなげに言われて慌てた。今は完全に時間外の上、疲れて帰ってきているはずだ。さすがにそこまでしてもらうのは忍びない。
「なに言ってんの、いいわよ! 出張帰りの人間こき使うほど鬼じゃないわよ、私だって」
「知ってますよそんなの。それより早く終わらせたほうがいいんじゃないですか?」
「いや、それはそうなんだけどさ」
「ほら、時間もったいないですよ。やってやって」
急かされて、渋々マウスを操作する。確かに揉めている時間がもったいないし、陽斗は引いてくれる気はなさそうだ。
言われたとおりに画像を入れる。やはり行間に入ってしまう。
「そしたら、画像を選択して右クリックして、画像の書式設定を開いて……」
と、ごく自然にマウスの上の手に手のひらを重ねられて、飛び上がりそうになった。
思ったより大きな手。自分の手もマウスも、すっぽり包まれてしまうそれは、固くて節がごつごつしている、紛れもなく男の人の手、だ。
淡々と説明をしながら、灯子の手ごとマウスを操作する陽斗の体は、半ば後ろからのしかかるような体勢で。
ふわりと香ったのは、制汗剤か、コロンだろうか? 鼻腔をくすぐるそれに、疲れた脳が痺れた。
顔は割りと好みのほうだった。よく話す子だな、と思っていた。仕事の時も、隣の席だから質問や確認も積極的で、好感は持っていた。飲み会の時も隣に来ることが多く、肩が触れる距離で、陽気に出来上がった陽斗をいなしながら、酒を楽しむ時間が好きだった。
……たまに、そっと触れる膝や指先に知らん振りをしながら、跳ねる心臓を持て余したり。
酒の席で、ちょっと好みのかわいい後輩と仲良くするぐらい、やさぐれた一人身のささやかな楽しみなんだからいいじゃないか! とか、ああ、こんなことでどきっとする程度には、私まだ女捨ててなかったんだなー、なんてしみじみ思っていたのに、何がどうしてこうなったんだろうか?
「はい、こうすればOK。で、続きは?」
「あ、え? え、ええと」
すっと手を離されて慌てて我に返り、灯子は続きを打ち込んでいく。画像は、思考を飛ばしていた間に、思った通りの場所にぴったりと嵌まっていた。
手の甲から急速に拡散していくぬくもりが寂しい。こんな至近距離、飲み会の時ですら許したことはなかった。
しかも、ここは居酒屋じゃない。誰もいないとはいえ、誰が来るかもわからないオフィスで何の前触れもなく急に施された接触は、灯子を混乱させるには充分だった。
――そうだ、気のせいだ、そうに違いない。特別な意図があったわけじゃないはず! 今はこれを完成させるのが先よ!
平常心を取り戻そうと、必死に画面をにらみつける。
「で、ここにグラフを入れれば完成」
「じゃ、グラフ出してください」
言われるまま、画面にグラフを入れる。
また、後ろから伸びた手にマウスごと手を重ねられた。
しかも今度は、手の甲をすっとなぞった指が、灯子の指の間にするりと収まる。さっきよりも強く背中を押されて、前のめりにデスクに押し付けられた体を囲い込むように、もう片手がデスクに着いた。
どうして、どうして、どうして。
「チャンスって思ってます、正直」
惑乱する間隙を縫って、無防備な耳元に落とされた低い声に、びくりと肩が跳ねた。かすかに触れた吐息に、耳がかっと熱くなる。まるで火が付いたみたいだ。
「な、に言って」
「俺がずっと灯子さん狙ってたの、気づいてません?」
事務的にマウスを操作している手とは裏腹に、流し込まれる声は甘い熱がこもっていて、灯子の背筋を震わせる。
じわりと体に火がつく。……その火の消し方が、灯子にはわからない。
「し、知るわけないじゃない、そんなの」
「仲のいい後輩装って、いつも話し掛けたり、お菓子分け合いっこしたり、飲み会で隣死守してたって言ったら、信じます?」
「ちょ、待って、だって」
な、なんて言えばいいの!? 私も便乗して密かに楽しんでましたとかさすがに言えない!
自分はがさつで、女扱いされてなくて、年上で、先輩で、およそこう言う対象にならない女のはずで。
こうして女扱いされるなんて、ほぼ初めての経験だ。下世話な切り返しならいくらでも出来るけれど、真正面から口説かれたら、どうしたらいいのかなんてわからない。
仲のいい後輩だなんてすっかり信じ込まされて、警戒心解かせて、パーソナルスペースに入ることも許してしまっていた。それが計算ずくなのだとしたら、たいしたやり手だ。
「飲み会で口説いてもよかったんですけど、かえって信じてもらえないかもしれないし、酒の勢いとか思われても嫌だったんで、しなかったんです。でも、今誰もいないし、今しかないって思って」
そうだ、酒の席なら、『からかわないで』って言えたかもしれない。けれど、今ここは二人きりで、お互いにしらふだ。
いつもなら、『んなこと言ってると取って食うわよ』なんて笑い飛ばすことも出来たかもしれない。でも、機先を制した不意打ちにすっかり飲まれてしまって、いつもの勢いが出ない。押さえ込まれるように感じる男の固い体が、下手な言い逃れを許してくれなさそうで。灯子は唇を震わせながら小さくなるしかない。
「すごくかわいい、灯子さん」
「……っ」
くすりと笑い混じりにささやかれる。唇は触れていないのに、ゆっくりしたその声だけで、耳を舐められているような気分で、上がりそうになる声を必死に飲み込んだ。
デスクについていた陽斗の手が上がる。キーボードの上で固まっていた灯子の左手の手の甲を、さっきの右手と同じように5本の指がつうっとなぞる。ざわっと肌が粟立った。そのまま、指の間に入り込まれて、ぐっと強く握られる。
強く、弱く、確かめるように握りこまれる。抗えない強さと、熱と、皮膚がこすれるたびに発生する甘い痺れが、腕を伝って脳に届く。左手の産毛が全部総毛だっている気がして、心臓が膨れ上がっているかと思うくらいどくどくとリズムを刻んでいる。
画面から目が離せない。まとめた髪に頬を押し付けられて、画面を見る視界がわずかに揺れた。
もう、ほとんど抱きしめられていると言ってもいい。
自分の中で、危ういところで保っていた均衡が崩れた。
揺れていた天秤は、陽斗の方にがくんと傾き、その重さに耐え切れず、崩れて消えた。
「はい、これでおしまい」
言われて、はっと顔を上げる。恐る恐る見た横顔は、柔和そうでいて、意志が強そうな目。柔らかなカーブを描く頬は、ひげが少し伸びているように見える。 かわいい後輩だと思っていたのに、こんなところは妙に男臭くて。
呆然としているうちに、さっさとワードを保存してパソコンを落とされた。
その間中ずっと、両手はつなぎとめられたまま。人の手に手を重ねたままで、なんであんなにマウスを動かせるんだろうと、半ば現実逃避に近い心境で思ってみる。
……恥ずかしい。
うつむくと、急激に顔に血が上ってくる。
「も、もーいいでしょ。離して」
「はい」
素直に手を離された。のしかかっていた重みもあっさり消える。
弱々しく震える小さな声。まるで自分の声じゃないみたい。ここで、笑い混じりに『女の子みたいな声出してどうしたんですか? 具合でも悪いんですか?』とでも言ってくれれば、いつもの自分に戻れるのに。
頬に、じりじりとおき火のような視線を感じる。顔を上げちゃだめだと、内心の警告を無視して、顔が勝手に上がってしまう。
視線を向けた瞬間、じっと見下ろしている茶色の瞳に体中縛られた、そんな気がした。
ああ、捕まってしまった、と。直感で、そう思った。
すっとかがんで、視線を合わされる。深いところまで見透かされそうな視線に射すくめられ、ヤバイ、と反射的にいすごと引きかけた体は、背もたれを押さえた片手にあっさりと阻まれて、逃げられなかった。
「帰り支度してください。送っていきますよ。……一緒に帰りましょう?」
息がかかるほどの至近距離で、ふわりと艶めいた笑みを浮かべてささやかれたら。
行き着く先がわかっていても、なすすべなくうなずくしか、なかった。
というわけで、現代恋愛物でした!
いかがでしたか?